Tokyo 1月31日(水)
         
 教会成長論
 世俗の“会社経営論”や“経営学”を教会形成やシステム化のために模倣するというのは聖書的ではありません。メガチャーチをめざしていて、大集会の牧師 となるという“野心”が見えているのも問題ですが、もっと根本には、教会が人の知恵や力でなく聖霊の賜物によるという教会創設の原則に反するとみられま す。キリストの教会が“野心”の餌食となるとき、牧師は魂を養うキリストではなく、自分の威信を示す、ヤクザ組織 を形成するのとほとんど同じか、形式だけキリスト教のようですが、中身は「自分の意見に従わないものは排除」というまさにキリストとは似て非なる集団とな るのでした。牧師のあいだに、役割として“主任”とか“代理”とか“副牧師”とか階級化する場合も、カトリック教会のようなヒエラルキーとの区別が難しく なるようなケースもみられます。聖書の原則によって教会が絶えず改革され続けていかないと、いつでもそのような「世俗的リーダーシップ論」が進入してくる ことになります。
 自分の言ってほしいことを聖書のなかに見つけようとするのは愚かですが、たとえば自分の言いたいことのために、聖書を引用したくなるというのも、講壇に 立つ側の心理なのでした。聴いている人より高いところに立っているといつのまにか、自分が何か高い地位に就いているような錯覚に陥ります。小規模の教会で あるべきだいう考え方にあるのは、このようなメガチャーチに入り込んだ世俗思想との闘いがあるのだと考えます。
 大規模の教会のほうがサラリー(牧師給与)がいいので有能な牧師だとか。アルバイトした生活を強いられているような牧師は能力相応だなどいうのは、パウ ロも聖書も知らないからであり、いえ、見た目とは別に、とうの昔に聖書そのものを忘れ去って偶像崇拝の最中にあるのかもしれません。
 開拓伝道期の状態から“フルタイム”をめざすのは当然です。ところが、ひとたび人の堕落した知能のフィルターを通されてしまうと、世俗の仕事に従事して いる教職を見下げるような傾向が生まれます。まさにそれこそが教会の内部が世俗の能力主義の影響された結果でしょう。福音主義教会と呼ばれる信仰の体質 がかなりの部分が福音そのものではなく福音を看板にした「学歴信仰」であるということに気づかねばなりません。

 その一方で、“小規模教会”に固執する場合に、親族や身内の“勝手の良さ”に慣れてしまうという落とし穴があります。教会の有力な信徒によって家族や教 会政治がおこなわれるというのも、もともと「家族の福音」であるので親族が増えることには、あまり警戒し過ぎることもどうかと思われますが、一方で、教会 が“何とか一家”の所有物ではなく、地域に広く開かれた共同体の体質を維持していかなければなりません。気のあった者が集まる“同好会”とキリストの召し によって集うキリスト教会は異なるからです。
 外国のミッションが主体となる宣教としても、いくつかの課題があります。宣教される側の国(被宣教地)にたいして、植民地のように自国のやりかたを移植 するのが優先されるほうが、てっとりばやいという面と、宣教師ベースで経済を動かすほうが面倒がなくてもいい。しかし、外国に自立した教会ができるまでの “養育係”であることに納得できなくて、たとえば日本人にリーダーシップを任せないなどとなると、すでにそれは「パウロの考えていた教会形成のありかた」 からずれているのだと自覚しなければなりません。