Tokyo 1月27日(土) 
         
日本の福音主義プロテスタントの弱点 
 世の価値観からすると、高学歴、華麗な職歴、それに、収入の高いステータスが「魅力」であるのは間違いないでしょう。
 けれども、キリストに支配されたものが、世の人の価値観をそのまま引き継いだように、学歴の高さ、高収入が伴う職業、ステータスをキリストの光と混同させるような所作がNGであるのは明白なのでした。「すべてキリストのため」といえば、世の価値観をそのまま引き継いでもいいなどと誰が言ったのでしょう。プロテスタント福音主義を標榜する諸教会、とりわけ日本の教会のなかに、高学歴や職歴をもって、あたかもそれがキリストの権威を示しているかのようにして人々の心を支配しているとみられる所作がしばしばみられることに唖然とします。
 
聖書は聖書で
 聖書は聖書で解釈されるべきでしょう。聖書に書いてあることがわからない場合、自分勝手な解釈を決めつけてしまうのではなく、聖書の別の箇所を調べてみるなどして、解決が示唆されているような例がほとんどですが、それでも「わからない」という箇所も非常に多く存在します。
 そのとき、たとえば奇跡についても科学的解釈という、わかったように見えて実は全くわかっていない、つまり人の理解できる範囲に神の業を押し込めるなどという暴挙がおこなわれていました。月に見えるクレーターは宇宙人の基地である、いやそう見えるだけではなく、実際そうであるに違いないみたいな言い方とどこが違うのでしょう。いえ、「オカルトと科学とは違う」といいはるのですが、もちろん実証性があるかないかという線引きは大切ですが、聖書の記事を解釈する場面でのはなしで、水の上を歩いたイエスは、綱渡りしていたとかの類で、何の検証もないまま、現代人の納得の範囲で受け入れるというのはよく残念ながらよくみられる落とし穴です。聖書を受け入れるというのではなく、聖書の文脈を見ていないとか、聖書そのものを受け入れていないのと全く同じです。
 聖書で何が言われているのかわからないところは多数ありますが、人が、救いについてをはじめ神学的な課題や生活のための諸原則を学び得るためには充分の知識を与えられているのです。
 
波瀾万丈の生涯であっても
 生涯において何一つ“不祥事”をおこさないという状態は、“恵まれた生涯”というのに異論はありません。キリストにある生涯が生涯安定して、平穏であるというのは主の恵みです。主は、人が生涯平穏で安定した生活を営むことを望んでおられるからです。
 けれども、他方で、さまざまな事象やときには自分の罪の結果からくる不幸に翻弄され、“褒められた状態でではない”という生涯があったとしても、(不祥事には不祥事にふさわし対処の仕方を聖書は示しているのですが)、事は真剣に悔い改める魂を主がどう取り扱われるかではないかと思います。
 「あの収税人のようでないことを感謝します」といって自分が正しいといいはったパリサイ人にたいして、「こんな罪人のわたしをお許しください」と祈った収税人の祈り主は受け入れられたのでしょう。問題なのは、放蕩の末父のもとにかえった弟ではなく、父のもとで品行方正な暮らし方をしていて、褒美ひとつもらえないとか不平をいった兄にあったのではないですか。
 あたりまえのことですが、罪を犯してもいいなどというのではなく、主の心に沿った「罪との向き合い方」をしないと、罪を犯している人を断罪しているあなたのなかからキリストが失われることになります。(黙示録のエペソ教会)
 キリストの名をって正義をかたり、キリストの側にたっていると自覚しているにもかかわらず、他人を裁いているあなたのなかからキリストが失われたとき、主の目からすると、たとえキリストの名を語っていても、肝心のキリストの側からは、信仰のない人たちと同じようにみられていることになります。
 キリストの名を 語るあなたが 一番ふさわしくない
 ということになりますよ。
 キリストの群れにいながら、キリストから突き放されるというのは、キリスト教会の外にいて、外見は異教徒のようにしていながら、心のなかで主を信じていて、いつか主の群れに加わるときを待っている人と比べると、知識があって自分には信仰があると自認している分だけ、はるかに厳しい取り扱いを受けるに違いありません。 
 だからこそ、悔い改めをもって主を慕い求め、主の心にかなおうと日々精進している信徒について、あらゆる場面で祝福に預からないはずはないのです。自分こそ、正義の側にたち、神の牙城の側にいると高をくくってはなりません。悔い改めなければ、あなたも卑しめられ、滅ぼされるのです。キリストのまえに、わたしたちはただの罪人に過ぎないからです。
  
みこころのままに
 信仰に裏打ちされ、人がなしえる努力を尽くした上で、「主の御心にゆだねます」ということは非常に重いことばです。信仰のない人たちなら、何でもかんでも主の名を持ちだして、肝心なところで神に責任転嫁する無責任ないいかたと写るのでしょうけれど、敵に復讐したい心があっても、「復讐するのはわたしだ」と聖書に書かれているところに従って「主に委ねる」と告白するとき、それは現実として最も厳しい局面に臨んでいることを意味しています。
 それゆえに、聖なる言葉の尊厳を考えるとき、軽々しく「みこころにゆだねる」などと言うべきではありません。
 罪をおかした人を会員名簿から抹消する=除名するとかは、初代教会にもみられました。ただし教師や長老にたいして、一度なされた按手を取り消すとか、カルト教団ならまだしも、そのようなことを地上のキリスト教会ができるとは思われません。官僚政治における処罰規定と、主にある教会の秩序を混同しているのではないでしょうか。