Tokyo 1月26日(金) 
         
  ハリウッ ド映画は、「映画とはただのエンターテインメントであるとか、芸術作品である」とかいうまえに、人に復讐心や“のろい”を教えているのではないかと思われるふしがあります。意図するかそうでないかは別として、知らないうちに心のなかに植え付けられるサブリミナル効果というのでしょう。「やったらやりかえす」とか「目に目め歯には歯」というあの復讐心です。
 キリスト者にも映画ファンは多いはずなので、あえてこのように書くと自分が映画の外にいるかのような書き方のようですが、映画をまともに鑑賞しはじめたのはF・シェファーの神学書にふれた頃からで、映画が現代人の考え方や心に与えている影響が少なくないと思われたからです。
 聖書の神は堕落ゆえに人を断罪されましたが、エバの末裔に希望をあたえ、とりわけアブラハムとの契約によれば、アブラハムを祝福する人を祝福するとまで語り、キリスト者はとくに(ペテロによれば)「祝福を受け継ぐために召されている」のでした。
 ハリウッド映画には、復讐心を教えたり、「車」と「リゾート」など消費文化というアメリカの消費主義の経済原理を伝えたりいろいろな面があるのですが、ときおり聖書を題材とした作品にも違和感を禁じ得ません。
 ただ聖書を題材としているというだけで、聖書そのものがもっている役割を逸脱しているとか、聖書が書いていないことを登場人物に言わせているとか、聖書を攻撃するためにあえて破壊を意図してつくったのではないかという作品もあったりして、聖書のテーマを映画にすることじたいが、聖書に対して冒涜的なのではないかとさえ思われます。メル・ギブソンの「パッション」は歴史考証がよくできた名作ですが、聖書を題材として描かれた作品であっても、これで聖書がなんでもわかったかのように錯覚されても困るなという感じですね。
 カトリック教会の教会堂に描かれている聖書のかずかずの聖画は、聖書を読めない愚民のため「上から目線」がみえみえであり、絵の評価とは別に、(すばらしい作品も多いと思われます)、聖書そのものを民衆に解放していなかったひとつの背景がそこらあたりにあります。映画を見せるだけとかは、入り口になるのかもしれませんが、聖書や信仰への誤解を招きかねません。
 聖書は、人が人をのろうことを許しておられないのです。むしろ、人を救うことも滅ぼすこともできる神を怖れなければなりません。聖書は神が人をのろうことを知らせます。(申命記)旧約の人々に示された「のろい」も、未来永劫に呪われるというものではなく、主にあるものが受ける千代までの祝福にたいして、3〜4代に続くところで留められているのです。
 てっとりばやく“映画でも見て聖書を読むかわり”になどということはできません。“The Bible”という創世記を題材にした映画も、リアリティというより創世記が人の創作によるかのような錯覚を与えていないかと案じます。思想的にはコテコテの右翼で私と真反対のお考えみたいな黛俊郎さんが作曲されたサウンドトラックが、いやはやものすごくいいとか、ノアを演じた俳優の演技がすばらしいとか、心に残ることはいくつかありましたね。大切なのは、聖書そものが何を語ろうとしているのかであり、罪あるままで聖書を読むとき、どのような読まれ方がありうるのかというひとつのサンプルのようなものです。 それでも、数あるなかにはほんとうに優れた秀作と呼べるものもいくつかありますので、本ブログでも勝手に「名作」と称して紹介してきました。
 この地上において、生きた信仰を実践する上で、そして隣人愛のため、世俗の人々が何を考え、何に感動し、どんな問題意識をもっているかを理解するため、キリスト者が選民意識にこりかたまり、上から目線で信じていない人々を軽視するような悲惨とならないために、世の人々が書いた本等も当然ですが、映画作品を鑑賞することは、ただのエンターテインメントだけではなく“隣人を愛せよ”と呼ばれた主の心に添う限り、神学的思考と宣教のモチベーションのための素材のひとつになるとは思います。