Tokyo 1月19日(金) 
         
 先日、車の 修理をしました。スズキの軽で13万キロ走行済。あちこち修理しながらのポンコツ今回もディーラーさんから車の構造や部品についての詳しいレクチャーを受けることになりました。
 車を作る人がいて、車の技術者たちは、すべての部品がどのような機能をもち、どのように意味あるものとしてそこにあるのかを理解し、適切な場所に設置します。さらに部品同士がどのような関係にあるのか、エンジンの内燃機関がどのようにして動力になるのか熟知しています。ディーラーさんですから、当然のはなしです。ところが、もしも真顔で「車というのは、もともと偶然の産物であり、人の必要に応じて、部品が集まってきて、部品同士がちょうど意志を持っているように人の意志と関係なく勝手に集まり、人が見ているあいだに自動的にくみ上げられて、完成されているのです」というとしたら、よほど頭の狂った人だと思われてもやむおえないでしょう。人は偶然が生み出した産物だというとき、それと同じことを言っているのです。
 聖書の創造論を「荒唐無稽」とされたり、ときに非科学的だとか笑いものにされるとき、わたしはむしろ進化論の荒唐無稽さを思わずにいられません。
 生物の生成と形成についていえば、進化論とは、自動車が“勝手に部品が集まってつくられた”という現実離れした議論と等しいからです。自動車がいかに計画的に製造され、組み立てられるかはディーラーでなくても素人レベルで承知されているでしょう。人がどれくらいの精緻な仕組みで生命体として維持されているかは、それこそ自動車の比ではありません。それが「すべては偶然の産物である」と考えることがいかに現実離れした荒唐無稽な飛躍した議論であるかは、幼い子どもだって理解できます。
 神の存在を認めたがらない人々のなかには「インテリジェント・ディザイン」とかいって、あたかも宇宙人による計画が存在するかのように説明されていますが、生命体全体が、美しさと精巧さを兼ね備えていることから、すべてが自動的に(勝手に)生成されてきたとする進化論を受け入れられない反面、聖書の神も受け入れがたいというところから来ている鵺(ぬえ)的議論なのでした。
 進化論を科学的というためには、議論の飛躍や荒唐無稽さを真理として受け入れなければなりません。“科学的見地から”というのは、法医学などものごとを分析する場面で大切な意味のある基準です。ところが、生命起源についてあえて「わからない」とはいわず、進化の概念をむりやりリアリティに当てはめようとするとき、数億年という単位をつかった「時間の神格化」をしなければならなくなり、進化論とは、すでにキリスト教に対抗した、現代風にかたちをかえた「新宗教」となっているのだといわれるべきです。