Tokyo 12月21日(木) 
          
 
神である主 は,アダムとその妻のために,皮の衣を作り,彼らに着せてくださった. (創世記)

 “やさしい”神

 アダムとイブは、神の禁じた木の実を食べたことにより、楽園を負われ、エデンの東に住むようになりました。そのとき、主は動物を殺し、その皮からアダム とイブの衣をつくってくださったという箇所です。
 自業自得といって、エデンを裸のまま追放することをされず、あえて動物を殺し、革の衣をつくり、お与えになったところに、主が人にたいして示されている “やさしさ”を読み取ることができます。
 神の怒りは、二人が禁じた木の実を食べた直後にもあらわれています。イブは産みの苦しみを増し加えられ、アダムは死ぬまで労働を苦役として味わわなけれ ばならなくなります。“自然”は呪われ、呪いのしるしとしてアザミが地に植えられます。
 堕落によって、人の性質は「罪」とされました。人は生まれつき罪のなかに生まれ、それに例外はありません。良心のほのかな光によって正義とはなにかを悟 ることができるのかどうかといえば、それさえ、罪の影響から守られているわけではなく、人の堕落は「全的堕落」として認識されるべきであり、言い逃れの術 もなく死に値するものでした。
 罪にたいする主の対応はたとえ堕落後だとしても、非常に憐れみに富んでいました。一人子であるキリストを死に追いやるような犠牲とかえてでも救いたいと 願ったみ心が予想させられます。
 人が人に示す“あわれみ”がどれだけすばらしいとしても、ひとり子さえ犠牲にするほど、人の命を慈しまれたという、その大きさを人が理解できないかもし れません。命を惜しむ心が強く、最も大切なものを犠牲にしても厭わないほどの愛でした。おそらく、その愛の強さは人が想像することさえ不可能でしょう。   
 聖書は人の罪を少しも割り引いたり、甘く扱ったりはしていないのですが、その一方で、神が人に示された憐れみと犠牲の大きさは測り知ることさえできませ ん。徹底的に罪を深刻さを理解できなければ、キリストの十字架上での犠牲という業の大きさも理解できないでしょう。
 人が人を救い得ることは絶対に不可能であると悟るとき、完全にキリストの業を受け入れる道が開かれます。
 キリストによる以外に罪から解放される道がないと悟るとき、はじめてキリストのあたえる真理と真理があたえる自由が完全なものであると自覚できます。
 生まれながら罪人である人は神の示された“やさしさ”を完全に理解できないかもしれません。けれども、人の悲惨な状態を心から理解できて、人の痛みや悲 しみを思いやることのできているやさしい心に恵まれている人なら、その人はきっと神からそれほど遠くはないに違いない。