Tokyo 12月14日(木) 
          
 すべ ての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(第一ヨハネ)
 
 自分がどのようにして主の恵みをいただいてきたかを公にすることで、もしかしたら聴いている人がキリストのみ名をほめたたえるようになると錯覚してしまうのかもしれません。最悪なのは自分のなかにいかに大きな主の業がおこなわれたかという言い方で、主のみ名ではなく、結局のところ自画自賛を吹聴しているというのは熱心なキリスト者にとってもありがちな落とし穴となってしまうこと。
 主が用いられた歴史のなかの“ビッグネーム”は少なくありません。けれども主が望まれているのは主の業によって人の羨望の的になることではなく、ひたすら主の名が褒め称えられることでしょう。
 キリストを信じるものとして、歴史に名を残さないということはとても大切なことです。聖書にはたくさんの聖なる人々が記録されていますが、圧倒的に多数の人たちは、その名前はもちろん存在すら知られていません。
 人に知られるか知られないか、人から褒められるか無視されるかそのようなものは、どうでもいいのであり、ただ天に名が記されていることを喜びとするべきなのです。
 主の名によって大きな業をおこなえたとしても、自分に帰された栄誉なのか主の栄光なのか区別できなくなってるのだとしたら、もう一度全部を失って、出直したほうがいいでしょう。
 自分がはじめた開拓伝道。それでどれほど大きな会堂をつくったか。どれほどたくさんの人に洗礼を授けたか。自分の説教がたくさんの信徒をおこし、たくさんの献身者が生み出された。どれほど大きな仕事をしても、全部主の聖霊がおこなわれた結果です。あなたには何一つ誇るべきものもなく、まして人に自慢できるものはないでしょう。
 どれだけ多くの業をおこなえたとしても、キリストの名ではなくあなたの名が地上で褒め称えられるように生きてきたのであれば、むしろそれは最悪の結果です。たくさんの慈善行為をおこなったとしても、「右手のしていることを左手に知らせるな」と語られた方をあなたの主の模範に従うのでなければ、あなたが何をなしたとか、どんな事業をして大きな富を築いたとか、人には全部忘れられてもいいのです。結局、歴史には名前が残されず、どれほど偉大な仕事をしたとしても、どんな業績の痕跡も残さず、ただひたすら召しに従ったつとめとして、信徒の心に主の御ことばが書き記されることのみを生業とし、やがて存在すら覚えられずに地上の生涯を終わる。それが理想です。
 自分の名が、天に記されていることだけを喜びとすべきです。