Tokyo 12月5日(火) 
          
 2017年 11月19日 調布南教会 礼拝メッセージ

聖書 ヨハネ18:33−38

説教 教会の主であるキリスト


 ピラトとイエス様とのやりとりを通じて、私たちの「みえる教会」について、大切な基礎となる教えを受けたいと願います。
 イエス様が十字架にかけられる前、ピラトに尋問されました。
 イエス様は、すぐ前に引き出されたヘロデの前では沈黙されていたのですが、ピラトからのいくつかの質問には答えておられます。
 ピラトの側からすると、それまで何度もローマへの反逆罪で有罪者に死刑判決をおこなってきたものとして、いったい何の罪があってしょっ引かれてきたのか を知りたかったというのが最初の疑問でした。
 「あなたはユダヤ人の王ですか」
 ピラトは地方総督として、ローマの権限を任されていました。生かすも殺すも自分の手の内にあったのは事実でしたが、ピラトは忠実な官僚としてしか生きる 道はなかったともいえます。
 主はストレートに応対しておられません。
 あなたの言うように、私はユダヤ人の王ですとはおっしゃらず、はじめから会話としては成立していないような答え方をなさいました。
 「あなたは自分でそのことを言っているのですか。それとも、ほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか」
 質問をしているのはピラトなのに、イエス様がピラトに「そのことは自分の言葉でいっているのか、ほかの人から聴いただけなのか」と尋ねておられます。 
 答えになっていないような答えをされたのは、イエスさまが語られることはご自分の権威に基づいているからであり、それにたいしてピラトの座っている場所 の権威はローマ帝国の支配がうしろだてがあるからこその権威なのであり、いいかえればピラトの発言はすべてこのローマの権威の代理人として発せられている のです。
 ピラトもまた、「自分の言葉として言っているのか他人から聴いたことなのか」というイエス様の質問に答えていません。ピラト自身にも心のなかで「この人 はユダヤ人の王なのか」という疑問があったのかもしれず、かたや「自分を王様だと思いこんでいる誇大妄想につかれた扇動家なのか」と思っていたのかもしれ ません。
 ピラトはそんな質問をされては困るとばかり、「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちがあなたを私に引き渡したのです。あなたは何 をしたのですか。」
 ピラトは主からの質問に間接的に「自分がそう思って言っているのではない」という意味で「自分があなたのことを王様だなどと言うのはお門違いだ。ユダヤ 人が勝手に王様と呼んでいるあなたが訴えられているのであり、自分は“いやいやながら”その話をきかなければならない立場にあるだけだ」といったことにな ります。
 確かに役目だったのですが、ピラトには裁判の席につくまえ「妻からの伝言」として「夢で苦しめられたので、あの正しい人にはかわらないでください」と懇 願されていたので、「もしかしたらこの人は本当に正しい人なのではないか」と気がついていたのでした。
→マタイによる福音書 27:19
 「あなたはいったい何をしたのですか。」「訴えられるようなことを何かしたのですか」というピラトとしてはなりゆきの当然の質問でした。
 自分のペースに引き入れたかったといえます。
これにたいしても主は、ストレートに答えておられません。
 つまり、ここで記録されている主の言葉は、ピラトとの会話というより、むしろ、ピラトへの言葉というかたちをとりながら、実際には、聖書を読む人々そし て選ばれた民にむけて語られているメッセージであるといえるでしょう。
 「わたしの国は、この世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしの僕たちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょ う。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」
 主が二回繰り返されて強調されているのは「わたしの国は、この世のものではありません。」でした。
 教会についても「教会とは、もともとこの世から出たものではない」という考え方が必要です。
主は次に、「王であるのは、あなたの言うとおりです」と応えられました。
教会のかしらは牧師・長老など指導者ではなく、主イエスキリストです。
教会の頭は牧師ではなく、牧師は指導者ではありますが、もっとも権威ある方はキリストであり、キリストは信仰の創始者であり完成者であるとされています。
教会のなかにどうして選挙があるのでしょうか。
神様が決めておられるのであれば、牧師を人が決めるなどというのはありえるのだろうかと。

教会がもしこの世から出たのであれば、指導者である牧師も「人気投票」のようなかたちで選ぶか、非常に強い指導力をもった人が牧師の名で権力をふるうだけ になるかもしれません。もしかしたら、神の権威を傘にきて、キリストの名を語って権威をふるう詐欺師であるかもしれません。
牧師もキリストの僕であり、罪をあがなわれなければならない罪人です。牧師が自分の所有であるかのようにふるまう群れは、キリストが頭であり王であるとい うところから離れているとみられるのです。
ほとんどの教会が牧師を選ぶというシステムをもっているのは、人が罪深く誤りやすい存在であることをふまえて、牧師を絶対者のように扱わないという面と、 頭であるキリストのまえに牧師が語る言葉が頭であるキリストの権威に基づいていると受け入れるということを表明することにあります。サタンに魂を売ったよ うな牧師に教会が牛耳られてしまわないように、教会がキリストのものであると信じるからこそ備えられている選挙なのだといえます。
世から出ていたのであれば、この世の組織やグループと同じになってしまうのですが、教会の権威者はキリストであるところに、「キリストの王国はこの世から 出たものではない」というメッセージがあるのでした。
ピラトは懸命にイエスさまを理解しようとしました。ピラトに同情したくなると語った人もおられます。それくらいに、ピラトは心を痛めていたし、聖書によれ ばピラトはなんとか死罪の道から解放したいと思っていたとされます。「キリストの王国がこの世から出たものではない」という言葉くらい、このときのピラト に理解できなかった言葉はなかったでしょう。
ピラトはさらにもういちど「それではあなたは王なのですか。」
ピラトの質問は、目のまえにいる存在が「自分を王様であるといって扇動しているのではないか」という先の趣旨ではなく、主の語られる言葉によって「もし、 あなたの王国がこの世のものあるというなら、その王国の王はあなたなのですか」というところにあります。
ピラトは主の語られる言葉の内側に足を踏み入れたといえます。
「私が王であることは、あなたが言う通りです。わたしは真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属するものはみな、わた しの声に聴き従います。」
イエス様の言葉から推測できるのは、王であることを証言されているのですが、まだ信仰と言うには値しないとしても、ピラトがもしかしたらこの人は本当に王 様かもしれないと考えていたのではないかというところです。
「真理に属するものは、私の声に聴き従う」と聴いたピラトですが、自分の立場にたいするこだわるのをわすれたかのように、すぐに「真理とは何か」と質問を 返します。
大切なことなのですが、イエス様が真理というとき、それはご自分をさして真理とおっしゃっているのですが、ピラトが真理とは何ですかと質問したとき、特定 の何かと結びつかない曖昧模糊とした意味でした。
ピラトが懸命にイエス様のことを理解しようとしていましたが、自分の考えのなかに浮かんでいたのは自分がわかる範囲でした。
この世の基準をイエスさまの事柄に当てはめて納得しようとしていたのであり、ピラトのこの世の基準で主の業や主の群れのことを理解しようとしても無駄な努 力なのだということです。
ここで語られている最も大切なメッセージは「真理に属するものは、わたしの声に聴き従う」というところです。ピラトが尋ねたのは抽象的な「真理」のことで したが、イエスさまが語られた真理とは、ご自分をさして真理と語っておられます。
群れに属するかどうか決められるのはイエス様です。私たちが努力して得られるような資格のようなものではありません。主が群れの一員とされている人々に声 をかけられるとき、その声がわかった人々がみもとに引き寄せられて形成されてきたのが教会です。趣味やスポーツの会はよいものですが、教会はそのようなボ ランティア団体とは違います
.。
主がはじめられた業を人のおこなう事業と同じにみてはなりません。主の教会には主の教会のルールとやりかたがあるのです。
ボランティア団体でも、会社でも代価をもって買うクラブの一員でもありません。
教会が人を選ぶという制度をもっているとしても、この世とは決定的に違うのは、教会の責任者たちはキリストの権威のもとに召されているのであり、キリスト の権威のもと、もしキリストに反するように自分を崇めるように教えはじめたとしたら、選挙は唯一の抵抗手段となるといえます。牧師がかならずそのように豹 変するというのではなく、人の罪深さを考慮して、信徒はキリストからの声かキリスト以外の声なのかを区別しなければなりません。
私たち最初からクリスチャンは真理に属するものとして世に生まれました。私たちがイエスさまの声を聴いて、イエス様の声だとわかり、その声に聴き従えるの は、わたしたちが選んだ結果なのではなく、主が真理に属することをよしとしてくださったからです。
自分の意志で主のことを知識や経験に理解しようとしているうちは、まだキリストのことがわかっているとはいえないでしょう。
主が聖霊によって心を開き、みことばを受け入れるようにしてくださってはじめて、信仰に至るのです。
教会ができるのは、まず主が選んでくださり、声をかけてくださったところに集いが与えられるのです。教会の集いとは、主から召されたものたちの集いです。
何事も自分中心に考える傾向があるなかで、私たちが聖書から学び得るのは、教会の頭はリーダーたちではなく、キリストなのだということ。そして自分の判断 によって自分の意志で教会に集うのですが、そのように導いておられる主がさきにおられ、み声をかけてくださっていたのだと受け入れたいのです。