Tokyo 11月23日(木) 
     
 悪魔礼拝の徒
  米国において、政治家が聖書に手を置いて宣誓する様子はあたりまえのようになっていますが、キリスト教文化の賜物というだけでは認識不足なのでありたいせつなのは聖書に手を置く所作ではなく、「誰の名のもとに宣誓するのか」というテーマであり、米国の政教分離原則からすると聖書が登場するものの、宣誓するための“神なるもの”は、キリストではなく、どのような宗教諸派にも属さない架空の「神教」であり、政治的な力という意味では、政治が“悪霊”の支配と国民主権の相克の場であるとみたとき、国民の監視がなければ政治は常に悪しき諸霊に仕えるように流れるとみられるのでした。政治がもともとそのような悪しき存在ならばいっそのこと“必要悪”として認めてしまえというものすごく自己中心的な考え方さえ宿ってしまうのであり、“ナチスに倣え”という麻生さんのことばは戯れ言ではなく、もしサタンの手下として働こうと思うなら、ヒットラーの「我が闘争」を参考にせよとまともに言っているのです。非常に危険な発言のは言うまでもないですが、現行の自民党と公明党によって創設された“祭壇”がつくられれようとしているのであり、候補としてあげられるのは・・・これも言うまでもなく「靖国神社」であることは間違いないし、しかも、天皇は“現人神”としてのキャストを担ってくれたらいいだけの存在。安部さんたちにとっては、天皇が何をどう思うかは無関係なのであり、シナリオ通り動く役者であればいいのでした。
 そのシナリオとは、外向きにいかなる宗教の仮面をかぶろうとも、当事者たちが知ってか知らでか全国民をサタン礼拝に巻き込むことむけて描かれてます。
 谷垣さんや石破さんなど、「熱心なキリスト者」と公言しておられる人々も、不可解なことに靖国神社への参拝と日曜礼拝の出席は何の矛盾もなく共存しています。自民党としての立場と“キリスト者の精神”を矛盾なく受け入れるところをみると、がかつて戦中、国家総動員体制を実施するために最も熱心だったのがキリスト者だったという史実に目を開かれるとしても驚くにあたりません。石破さんが「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の一員であることを無視して、“キリスト者である”ことにフォーカスしているような周知のされかた問題とされるべきです。石破さんがどのような信仰の上にたち、どのような実践をされているかというのはそれこそこの国には「信教の自由」が法的に保障されているのですが、サタンの礼拝する場に公然と参加し、ほかの人も巻き込もうとしているとみれば、その政治的役割がどこにあるのか推測できようというものです。中曽根さんの母君もカトリック。そして麻生さんも“カトリック信徒”を公言しておられます。よほど米国の顔色をうかがうときにそうしておいたほうが都合がいいからなのでしょう。