Tokyo 11月11日(土) 
     
 ピラトにたいして「わたしの国はこの世から出たものではない」と語られたとき、教会もまた世から生み出された群れではなく、聖霊によって召されたものたちが集められた群れなのでした。けれども、教会がキリストのものであるとしても、世に置かれた教会においてはキリストにふさわしくないさまざまな要素が入り込むとみられます。たとえばひとりの伝道者が全くゼロから開拓をした教会の場合、牧師は創立者となり、群れの鍵となる人となります。はじめて教会に来た人は、ここのリーダーが誰なのかすぐにわかるのであり、とうぜんそれは牧師であると認めます。ところが、キリストのところに案内されるのではなく、牧師を尊敬崇拝する群れの一員になることが求められ、教会員席をもつ特権のかなりの部分は、有名な牧師のもとに集うことにあるのだとされます。牧師のおこなってきた業績のひとつひとつが徳目としてほめたたえられ、りっぱな牧師室には初代牧師の「写真」が飾ってあります。教会が存続するかぎり、牧師の名は“永遠に功労者として”記憶のなかに刻まれていなければなりません。
 多くの場合、牧師をキリストの代理人として崇拝するようなことを牧師自身が否定しているというのがブラックユーモア以外のなにものでもないのでした。ダミーの会議はあります。しかし、それは牧師の決定を、あたかも代表が合議で決めているかのようなカムフラージュにしかすぎないのであり、どれほど会議に時間をかけても、最終の決定は結局、牧師の発言に依存することになります。いわば批判を許さない絶対君主のような存在になったとき、教会はキリストの体であるとはいえなくなるのは説明するまでもありません。
 年数を重ねてくると、教会員相互の交わりも、きわめて親密になるに違いありません。
 それはときに「生きた教会の印」とさえみなされるのですが、それさえ、新しい人たちを形式的に「新人」として迎えるとしても、ほんとうの意味の仲間になれるかどうかは今度の交流の中身によるということになります。
 それでいいのでしょうか。

 キリストのことを慕い求め、魂に乾きを覚えて教会の門をくぐる人たちが最初に感じるのは「この教会は閉鎖的だ」という印象です。
 新しい人を歓迎しないというのではありません。閉鎖的なグループに入会を求めるのを歓迎するのです。現代のエスタブリッシュされた教会には、いったいどれくらいのハードルが用意されていることでしょうか。
 あえていいますがホームレスの人たちが汚い格好をして礼拝堂に入ってくるのをほとんどの教会は歓迎できないと思います。わたしも彼らを当然のことにように受け入れることは難しいと思います。ですが、キリストの生涯と、聖書が要求している目標が高いことを認めたうえで、現状を悔い改めたり、そのための努力さえしていない群れが多数だと思います。
 聖書のメッセージによって、教会はたえず“改革され続けていかなければなりません。
 改革主義を標榜する教会でさえ、”Ecclesia semper reformanda est(教会はたえず改革され続けていかなければならない)という意味の“改革”をどこまで真摯に実行しているのでしょう。
 旧態依然とした礼拝形式へのこだわり、たとえば新しい歌をうけいれない狭さは、教会の命を確実に奪い続けます。新しいものに敏感であるとかいう世俗の価値観のことをいっているのではありません。聖霊に導かれた聖書メッセージが確実に聴かされ、キリストのために熱心にされた器が与えられ、何事でもキリストの栄光となる事柄に目が開かれたら必ず実現のために熱心となるのを厭わず、かえって現状を維持するだけの状態にたいして、ひとつひとつについて見直しをおこない、ときに改定したり廃止するような姿が教会のほんとうの姿です。