Tokyo 10月29日(日) 
     
  喜ぶものとともに喜び、泣く者とともに泣きなさい(ローマ人への手紙)

 有名な聖書箇所ですが、実際の生活で生かそうとすると、とても難しいのではないでしょうか。
 どちらかというと薄情なほうだと想っている私にとっても、キリストを信じるものとしてひとつの高い目標と想われました。
 罪ある人はもともと自己中心で、他人のことなどかかわっておられないというのが常だからです。現代は個人主義さらにおしすすめられ、現代の私たちにとっ ては、ほかの人がどうかなどに関心をよせることすら、おせっかいとみなされるかもしれないからです。落語などに描かれた隣人関係の親密さがあれば、もしか したら現代とは違う人情と呼ばれる共感の世界があったのかもしれません。喜びと悲しみがひとつの形式とされていなかの文化が形成されているのであり、ハレ の日には村をあげて喜び、ケの人には村を挙げて喪に服するのです。田舎暮らしに疲れる人は、一緒に喜ばなくてもいい。形式だけの喜びなら、一緒に泣かなく てもいい、形式だけの悲しみならばと入ってほしいきもします。
 パウロが手紙のなかで語ったローマの教会には、時代背景としてひとつの特色があり、最も大きな特色のひとつは、いろいろな国の人々が混在していたことで した。福音はユダヤ人だけではなく、すべての人にとって救いをもたらす力であり、教会に集う人たちは異教徒から回心した人々が多数おられたのでした。ユダ ヤ人からみると、それまで話したことさえない人々であり、それどころか野蛮人という言葉で蔑んでいた人たちでした。そのような人たちと礼拝の席を同じくす るということがどれだけ大きな出来事かなかなか想像できないかもしれません。
 たとえば、趣味が同じとか話題が共通とか、同じグループでのおつあいが長いというのであれば、仲間内の親しさがあれば、“一緒に喜ぶ”ことだってときに は“いっしょに泣く”ことだってできるでしょうけれど、同じ信仰といったってもともと赤の他人だった人と仲良くすることはとても難しいと感じられたことで しょう。今でも、仲間内であれば泣き笑いは共有できても、仲間以外の人には薄情でもかまわないとか、それこそもっとも深刻ないじめの構造は、仲間はずれだ とされていて、一緒に泣くことも笑うこともできない外の人として扱うことが心の傷となるのでした。
 この聖句が実際に適応される難しさがどこにあるのかといえば、情に厚い人という意味であればクリスチャンだからというのでもなく、かえってキリスト者で ない人のほうが人に温かかったりするからです。
 パウロがこれを語るとき、人の罪の影響を考慮していないことはないでしょう。
 一緒に泣き笑いができるのは、仲間内同士のしるしとみなすでしょう。
 日本人の感覚として、共に泣くほうが共感しやすいかもしれません。もらい泣きを尊ぶ文化です。日本の文化が泣きの文化というとき、歌舞伎や演歌も泣きの 文化であり、悲しみをわけあうことに慰めを見いだそうとしているとみえるからです。
 自分に感心のないことは共に喜ぶことはなかなか難しい。そして喜んでいる人への妬みや嫉みが優先してしまって、心から喜べないことさえ生まれます。悲し みについては、さらに悲しんでいる人をみることで「自分が悲しんでいる状態にないことを安心する」なんとも歪んだ、いえ罪の影響がそのようにしてあらわれ るのだともいえます。けれども、キリストを信じ受け入れるということは、そもそも、泣き笑いさえ、自己中心でしかないと気づかせるところから始まります。 そしてわたしたちのなかにキリストにすんでいただくとき、かならず変化するであろう事柄の一つであるともいえます。すぐに変化する場合もあり、なかなか変 化しない場合もあり、おそらく人それぞれなのでしょう。
 泣き笑いの質が変化するというのは、キリストが内側に住んでくださることによる、もっとも大きなできごとの一つでしょう。
 聖書のなかのキリストが“喜んだ”というの場面がみあたりません。それでも弟子たちとの会話がいつもしかめっ面であったというのは字面だけを読んだこと による誤解で、きっと弟子たちとの交わりはいつも食事をしながらであり、そこにはつねに賛美歌の歌声と笑い声が絶えなかったに違いないでしょう。主は悲し みの人として世に来られ、むしろ人々の心に喜びが満たされるために来られました。隣人を蔑むことでしか喜びを見いだせない人に、ほんとうに心から共感の心 が与えるために来られたといえます。キリスト中心の喜びとはいったい何でしょう。
 主は迷った羊を見つけるたとえのなかで、ひとりのひとが悔い改めたら天使たちに喜びが満たされると語られました。イエスさまにとっては、人の命が救われ ることがもっとも大きな喜びだからです。最後の晩餐の場面で主はでしたちに「やがてあなたがたの喜びで満たされるようになる」と語られました。主は罪の世 でありながら、喜びの質を高めるために来られたともいえます。他人はどうでもいいとかではなく、人を蔑むことにしか喜びを見いだせない状態から解放され、 人々が救われ、癒されることを喜ぶキリストにある喜びが分け与えられることを祝い喜ぶ喜びです。

 主が悲しみの人と呼ばれたのは
人の悲しみを 取り除くためです。ですから、天国には涙が ないのです。(→黙示録)エリッククラプトンの有名なブルースである「天国の涙」は、反対語をあえて重ねているともいえます。歌詞に「天国に涙がないのは 知っている」とあるのは作詞をした作家が悲しみあったクラプトンを慰めるために入れたとされ、悲しみと涙の解決をキリストの慰めにもとめるならば、彼のよ うな世の栄華をきわめた人にさえ救いがあるのです。
   キリストの弟子たちは、ヨハネの弟子たちが断食したり悲しんだりしているのと同じでないことをみて、パリサイ人から非難されました。  
 喜びを共有できない人や悲しみを共有できない人を外見だけで推し量り、決めつけたがるのもまた人の罪のなせることです。