Tokyo 10月9日(月) 
     
“巨人の星”
  
 星一徹が、長男の飛雄馬(ひうま)を、巨人軍の投手として“徹底したスパルタ家庭教育をおこなう”というストーリー。巨人ファンでもなく、いえあまり野 球そのものにも興味がなかった少年時代を過ごしていたのですが、当時、マンガ本に“魔球もの”が多かったりして、消える魔球とか絶対に打てないボールを投 げるというのに憬れた時代もありました。
 今まで、私はこれをホームエジュケーションの例として紹介したことはありません。
 そして、おそらく、これからもないと思われます。
 その理由は、ホームエジュケーションとは子どもの中から潜在的な能力が引き出されることにねらいの一つがあるとしても、親が実現できなかった願いを子ど もに託するための手段ではないからです。家業をが子々孫々に継承されるというのは、すばらしいことだと考えますが、たとえば二世政治家の問題が語られるよ うになり、世代が受け継がれるたびに劣化していくとみられます。国家の私物化も生まれ、教会の牧師の場合も「代替わり」だけに依存していると教会の私物化 が避けられなくなります。
 ホームエジュケーションの結果、親と同じ職業に就くことはそれはそれですばらしいのです。けれども、子どもの能力は親のポテンシャルを超えているとわき まえておいたほうがいいでしょう。そのほうが楽しいからです。また子どもには必ず親を乗り越える力が存在しています。
 日本の野球なのになぜ“大リーグ”なのかなどつっこみどころもあるにせよ、大リーグ養成ギブスをつけさせるなどほとんど暴力ともいえる教え方に批判もあ りました。「体罰を使わないと教育にならない」というのは間違いです。
 「獅子は千尋の谷に子どもを突き落とす」などといわれ、子どもにあえて困難を与えることが子どもの成長にとって必要という言い方もされてきました。実際 のライオンは子ライオンにこのようなことはいっさいおこなわないとされています。ここにも「競争に勝ち残ったものが生き残れる」という悪魔の“進化論哲 学”が紛れ込んでいます。
 勝つため、生き残るためにどうしたらいいか必死にならないと能力は開発されないという考え方にもとづき、生まれてすぐに「恐怖」と「訓練」で育てられ、 完全な戦士となり、上からの命令で暗殺者となるというハリウッド映画があります。(暮れになるとスピーカーと黄色い看板をかかえて街に繰り出す丸森グルー プの「戦士たち」にもそのような隠れた黒歴史が存在します。)
 ホームエジュケーションを「巨人の星」のような“究極の英才教育である”とみなすのは、(結果として文字通りの英才が育まれるのだとしても)やはり正確 さを欠く表現だと思われます。