Tokyo 10月1日(日) 
     
  コバンザメ。吸盤で張り付いて自分より体の大きなクジラの体に張り付いて生息。多数の政治家が、“どこの誰に力があるか”を察知して、自分を保護してくれる力に張り付く。つまり、いつも自分の存在を守ってくれる力のところに張り付いているだけなので、何を考えているかとかどういう信念があるかなどは実はどうでもいいのであり、そうでない政治家を捜すのがむしろ非常に難しいのでした。
 小池さんの言動が非常に理解に苦しむのはそのようなコバンザメ的体質が非常に徹底しているために一般庶民の考え方や行動からは平気で嘘をついたり人を人とも思わない冷酷ささえあわせもってしまうところ。権力への固着の様子は、いったん権力を手に入れたら何をするかわからないという危険性を孕んでいるのでした。その点は同じ日本会議仲間の安部さんと変わりません。
 はじめから小池都知事にとっては国民の生活がどうなろうとどうでもいいのです。それは豊洲移転問題で一般国民にもあきからになりました。権力を手に入れるためなら、どんな立場や考え方にも豹変できるというのは、言い換えればそれはそれでひとつの得意技といえるのかもしれません。安部さんがあまりにひどい政治をおこなっているために、権力の座から引きづりおろすためならどんな手段でもかまわないとか、主義主張を曲げても利用できるものはなんでも使えというひとつの作戦としては、庶民の心を動かし得るソースとなるのですが、小泉さんの手法が「対立軸」を演出する劇場効果をねらっておこなわれ、劇場の幕が閉じたあと、結局何も変わらなかったという過去があります。それとこれとは違うといえるのでしょうか。
 権力争いがいやで政治に嫌気をもち、政治に希望をもてなくなる人も少なくないなかで、たとえコバンザメといわれようが権力の座を目標に掲げるか、それとも公権力としての政治を国民の生活を守るための力として機能させるといういわば理想に徹するかは政治家として使命をもつ人々にとっての永遠の課題なのでしょう。
 正義を基軸にできなくなった政治は必ず国を滅亡に誘います。安部さんや小池さんのような“コバンザメ”をやっていると、日本は滅びるのは確かです。そのために「目的のために手段を選ばない」と叫ばれたあとに実現した政権もまたそのようなカルト的判断基準に立つことはないという保障はどこにもありません。たとえ小池さんを御輿の上に担ぎ上げたところで、日本滅亡のアジェンダをもつ日本会議の呪縛から解放されなければ、福田元総理が語られるように、日本はこのままだと確実に滅亡にむかいます。
 けれども、理想を追いかけるのが「政治」ではなく、結局“力”。安部さんが手に入れている力が小泉時代に成立した公明党との共闘路線であり、目的のために手段を選ばない集団の力を借りるとこころから出発しているのだとしたら、「安倍政権を倒すためなら何でもする」ではなく、国民の生活を滅亡に陥れない政治をめざしてひたすら国民の側にたつという政治姿勢を理想主義と単純化して切り捨てることができないのではないかと思います。山本さんはほんとに難しい判断に迫られているでしょう。山本さんのような器が今のまま総理大臣になれる国であれば希望がもてるのかもしれませんがおそらくそんなことは実現しないないでしょうね。たとえ菅さんのように“たたかれる”のがオチだとしても。