Tokyo 9月25日(月) 
     
2017年 9月24日 グレースシティチャーチ 礼拝説教

 

士師記 16:21−31

 

見えなかっ たものが見えるように

 

25    彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう。」と言った。.サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯 れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、 26 サムソンを自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して,この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」 27    宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約3千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。 28 サムソンは主に呼ばわって言った。「神。主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、,神よ、どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の2つの 目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」 29    そして、サムソンは、宮をささえている2本の中柱を、1本は右の手に、1本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。 30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ち た。こうしてサムソンが死ぬときに殺して者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
 


 人が生涯 を終えるとき語る言葉は「遺言」と呼ばれます。

士師記16章に書かれているサムソンの生涯最後の言葉は遺言に似ていま すがかなり違うでしょう。けれども断末魔の叫でもなく、祈りの言葉に近かったのでした。

士師紀16章後によれば、サムソンはペリシテ人に捕らえられ、力を奪わ れ、体の自由を奪われ、目を潰されて視力も奪われ、何もかも失ったのです。

サムソンの生涯でいうと、人生最悪のときでした。人生の転落の坂道を下 りに下ったどん底の状態です。それまで横車を押し通すような人生を送ってきた人生の最後のわずかな時間にサムソンの生涯にとって最も大きな転機があったと 聖書を読むべきでしょう。

サムソンはなぜそのような状態に陥ったのでしょうか。

その一つの理由は、サムソンがペリステ人から恨みを買うような生き方を してきたからでした。聖書によれば、サムソンによってペリシテ人の支配からイスラエルを守られると決めておられました。事は、サムソンではなく主のお考え が先にあったのです。そのため、サムソンは主が許された範囲で、徹底的にペリシテ人を打ちのめしてきたのでした。

ペリシテ人の側からすると宿敵のサムソンが捕らえられたのであり、おめ でたい出来事だったのでした。ただ殺すのではもったいないので、目をつぶして慰みものとし、みんなの前で道化をさせ、笑いものにした後殺し、ダゴンの生け 贄として捧げて、積もりつ持った長年の恨みをはらそうとしたのでした。

すべての領主たちを含めておよそ3千人以上のペリシテ人たちが見物のためその建物に集まっていたと書かれています。

 サムソンがそのような悲惨のなかにいたもう一つの理由は、自分の愛した デリラのそそのかしに負けて、敵に絶対に知らされてはならない力の秘密を伝えてしまったことにあります。サムソンは強そうにみえて、非常に弱い性格だった とうかがわれます。きわだっていたのが女性に対する弱さでした。

自分が夢中になったデリラから言い寄られて、それがペリシテ人の悪巧み と知らずにとうとう力の秘密を打ち明けのです。

サムソンは生まれたときからナジル人として特別に神に捧げられた人であ り、その力の源は髪にありました。どうして髪に力があったのかわかりません。これが神のご計画の一つだったのは知らされています。それで生まれてから一度 も髪を切ったことも剃ったこともなかったのですが、ペリシテ人たちはデリラをそそのかして「力の秘密」を聞き出したのでした。サムソンは力が神さまから来 ていると考えなかったと思われます。

サムソンの生涯は、とてもクリスチャンの模範とはいえません。

なんでも力ずくでした。無理を横車を押すように押し通し、怒りにまかせ暴力にうったえました。腕ずくでも のごとを解決しようとしてきせて押し通してきらのです。それに、欲望に支配されていました。欲望の赴くままに好きな女性と性的関係をもちました。クリスチャン の模範どころか、むしろギャングのボスのような生き方をしていたとさえみえます。

サムソンが聖書に書かれているような悲惨な状態に陥ったのも、それまでしてきた悪い業の報いだとペリシテ人は思っていたのは当然ですが、天罰だとおもったイスラエル人も少なくなかったでしょう。イスラエルで禁止されていた異邦人との結婚を願って実現しようとしたからです。けれども、聖書は悲惨を天罰だと決めつけることはしていません。サムソンの悲惨と死を、ただ悪いことをしてきた天罰を受けた結果だとはみていないのです。

それでも、士師記を読むと、サムソンのいったいどこに信仰があったのだ ろうかと訝しく思われるような人生が記録されています。

わたしが幼い頃から聖書を読むなかで、理解できなかった事のひとつは、ヘブル人への手紙のなかで、サムソンが信仰の 人のなかに加えられていることです。

 
 32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょ う。 33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、 34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。


 

ここで旧約の時代に信仰に生きた人々のなかにサムソンの名がみえます。 ほとんどクリスチャンと正反対のような生き方をしていたのに、ヘブル書の記者はどうしてサムソンが信仰の人のリストに入れているのでしょう。

聖書をどう読んでもほんとうに信仰があったかわからない生き方をしてい たサムソンでしたが、想像できるのは自分が死のうとするほんの少し前に、大きな変化があったかもしれないということです。それに、サムソンは自分の目のた めに、仕返しをしたいと願っているだけではありませんか。復讐のするための祈りはイエス様のものではないでしょう。


それまで自分がよりどころだと思っていたものすべてを完全に失ったと き、サムソンがまさに死のうとする直前に最も大きな変化があったのだとみることができます。

力は自分のものだと疑わなかったのに、それが全く失われました。目で見 たことでしか行動していなかったのに、瞬間にすべてが暗闇に閉ざされ何も見えなくなりました。

それまで神様の名を呼ぶことがなかったわけではありませんでしたが、自 分中心の願いでした。何事も自分の力と欲望に従って生きてきたのです。この死の直前まで、サムソンが信じていたのは自分の力でした。自分の欲望に仕えてい たのであり、主のみ心に従うなどではなかったのです。

力を失い、見えることもできなくなったときサムソンは無力でした。自分 に勢いがあった頃には気がつかなかったのですが、すべてを失ったとき、それまで自信をもっていたすべての力は、実は自分のものではなく、神さまからの力だ とはじめて気づいたのです。

このように言いかえることもできます。それまで自信をもっていたすべて が失われたとき、それまで自分のものだと思いこんでいたものすべてが失われたとき、はじめてそれまで覆われていて見えなかったかすかな信仰の光が見えるよ うにされたのだと。

全部が自分の力だと思っていたところ、ほんとうのところは全部神様から のものだと悟ったのです。またこのように言い換えることもできるでしょう。

ペリシテ人によって光を見るための目は閉ざされたのですが、見えない神 様をみるという信仰の光を見る心の目がこのときはじめて開かれたのです。

 

【祈 りは力である】

彼が目みえなくなって心の目で見えたのは「祈りの力」でした。サムソン には見える力は奪われたのですが、祈ることはできたのでした。

 自分にはどんな力も賜物もないという前に、もっと訓練されてからとい うまえに、私たちには祈りという賜物があると知らなければなりません。みなさんのなかに自分には何をする力もないといっておられる人がおられますか。

祈りはだれにでも与えられている賜物です。

病気なので、老齢なので若い人のような奉仕ができないと。けれども、わ たしたちには祈りの力が与えられているではありませんか。

祈ることに意味がないなどと思わないでください。それでも、もしかして 自分に力があると思っているときは私たちも祈りの力を忘れる傾向があるかもしれませんね。 

クリスチャンでなければ「祈りは弱い者のすることだ」と言うかもしれま せん。宗教は弱い人のものだ。強い人は祈りなどに頼らず自分の力で困難を切り開くのだというのが世の常です。いつも神様に繋がっていないと不安でしょうが ないから祈ることで安心したいとか、自己中心からの祈りもあるでしょう。

聖書の教える真実はそうではありません。祈りは神様から与えられた私た ちが強くされるための賜物として与えられているのです。

もし祈りがただ形式だと考えている人であれば、あまり熱しに祈ることは しないでしょう。そのような人は祈りの力を信じていないからです。けれども、祈りの力を学んだ人は、熱心に祈ります。主は私たちの祈りに耳を傾けられてい ると知っているからです。祈らないより祈るほうがましなのではなく、祈りに応えてくださると知るからです。サムソンも、かつて、ペリシテ人とたたかった 後、激しくのどが渇いたとき、主に水を祈りもとめ、応えられた経験をもっていたのでした。

困ったときに神頼みをするような祈りかもしれません。ほとんどそのよう な祈りであったとしても、私たちの祈る相手は偶像の神ではなく生きておられる神です。

聖書の教える真実は、祈りとは主からの賜物であり、私たちがいつでもど こでもできる奉仕だということです。

そして、主が祈りに応えてくださると知ったとき、わたしたちに祈るため の場所、時間を選ぶ必要はありません。たしかに祈りに専念するために、静かな時間が役に立つでしょう。聖書は教会で共に主にある兄弟姉妹と祈ることに祝福 が伴うと教えています。神様からみると、わたしたちの祈りは、神様がその力を示してくださるときに用いられる道具です。主なる神は、わたしたちから祈りを 引き出すために日夜心を砕かれているともいえます。

あなたは祈りのための場所や祈りの時間がないと言われますか。いえ心配 は無用です。満員電車のなかでも祈りは可能だからです。たとえ病床のベッドのなかにいても私たちは孤独ではありません。主がともにおられて祈りを支えてく ださるからです。

四面楚歌であり、周りを敵に囲まれたサムソンでしたが、ただ一カ所天に 窓が開けられていて、主が祈りの声に耳を傾けていてくださったのでした。祈りの力は、特別な人にだけ与えられている力ではなく、魂にキリストの名が刻まれ ているすべての人に与えられている力です。

 主は試練を用いられる
サムソンの場合は、このような究極ともいえる試練にあわなければ、全く主に信頼するという信仰に落ち着くことはできなかったのでした。そうだとしたら、試 練も主の目からみると役に立つのです。
ヤコブの手紙にこのようにあります。

ヤコブの手紙1:2  「試練にあうときは、それをこの上もないよろこびと思いなさい」

私の信仰が未熟だったころこの言葉の意味が全く理解できませんでした。けれども試練が主のご計画であるのであれば、いくつかの試練を通じて、信仰が試さ れ、それまで見えていると思っていたものが見えなくなり、見えなかったものが見えてくるようにされるのです。
サムソンにとっては、すべてを失ったとき、なくてはならない唯一のものである主の名を呼び求めるという信仰が理解できたのでした。
サムソンには祈りの力を教えられます。けれども、どんな祈りを祈ったかだけについていうと、残念ながら、サムソンの祈りは私たちクリスチャンの模範とはな りません。
サムソンは、「このひとときでも、力を与えてください」と祈りました。まさに死のうとするときの祈りでしたが、それさえ、サムソンの心にあったのは、復讐 心でした。
キリストは死の時、敵のために祈られたのであり「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわからないからです。」と祈られました。ただ 敵を滅ぼすために力を与えてくださいと祈ったサムソンと主を比べることさえできません。
復讐についていえば、「復讐するのは神に任せなさい」というパウロの言葉があります。復讐心を遂げるために祈ることは許されていないのです。

それでもサムソンの祈りが叶えられているのは、ペリシテ人の力を削ぐことによってイスラエルを守るのが主のご計画であり、そのためにサムソンを用いられた からであるに過ぎません。
サムソンは主から用いられた器であり、主の確かなご計画のもとにあったということが大切です。サムソンの生涯の最後のそれも最悪の日に、主はサムソンの肉 の目を閉ざしてまで、それまで見えなかった心の目を開いてくださったのです。
試練を通じて、サムソンの願いと意志に関係なく、主はご自分のもとに引き寄せてくださったのだといえます。主にある試練は、私たちを神様から引き離すので はなく、自分の力ではなく、主と主の力に信頼するように働くのです。
信仰とは主によって召されて、魂が開かれてはじめてわかるのであり、試練にあわなければならないとか、すべてを失ったときにはじめてわかるというものでは ありません。けれども、主に愛されているクリスチャンのために、やはり試練さえ主のみ業として用いられるのです。
クリスチャンが試練にあうとき、それは信仰の訓練のために与えられているのです。どうか神様が意地悪をしているとか、自分だけ貧乏くじを引いたなどと思わ ないでください。、それは、わたしたちの信仰の成長のために、それまで外見では見えなかったものが見えるようになるために、宝石を鍛えて磨きをかけて価値 を高めるように、信仰によって見えない事実を事実として受け入れられるように用いられている機会だからです。


力と助けは主から来る
サムソンは、このひとときでも力をくださいと祈りましたが、髪の毛のことはすでにどうでも良くなっていました。すべての力は主からくるのだと悟ったからで す。
サムソンについていえば、外見では強くみえたでしょう。けれども、内面の心は弱く幼稚な信仰しかもちあわせていませんでした。人からみて強そうだから主が 用いられるのではありません。
人の弱さや罪がどれほどのものであっても、主のご計画は必ず実行されていくのです。
サムソンをみると、「こんな人はクリスチャンになるはずはない」という勝手な決めつけができなくなります。

ヘブル書11章11:32−34

ここに「弱かったが強くされた」とあります。サムソンにあてはめるなら、彼は強いと思ったが、自分の力に頼るだけで強いと思いこんでいたのであり、ほんと うは非常に弱い人だったのです。いつも自分の考えや欲望に支配されていたのです。
力は主から来たのですが、サムソンは理解していませんでした。サムソンが力の源が神さまからくると理解できたとき、主はサムソンをさらに大いにご自分のた めの器として用いられたのです。

主は罪を憎まれそして悲しまれます。人の罪を大目に見るのではなく、人をがんじがらめにして滅ぼすことになるすべての罪をすべて引き受けて、十字架の上で 身代わりに裁かれてくださいました。
けれども、たとえ主の器がどれほど弱く、罪と戦わなければならない状態にあったとしても、主のご計画は実現されていくのだと理解しましょう。ヘブル人への 手紙で「弱いのに強くされた」のあるのをサムソンにあてはめたとしたら、サムソンの弱さとは、主を知っていながら、主に頼ることをせず、自分の力に頼って いたときです。
強い人だから用いられたとか、優れた人だから用いられたとか、世の評判がいいから用いられるとか、もっとすばらしい人になれたらきっと用いられるとか思う かもしれません。主のご計画が実行されて、人が用いられるとき、必ずしも世の成功者や優れた人を用いてこられたのではありません。優れた人が選ばれたとし ても実は例外である、多くの場合はそうではなかったのでした。


サムソンのような経験はほとんどないでしょうけれど、困難に出会ったときに、自分の力ではなく主により頼み、そこで主のみ業にふれるというのはすばらしい 経験となります。
人は自分の都合で、困ったときだけ主に助けを求めるとしか考えないのですが、主は私たちを24時間365日守って支えておられるかたです。
サムソンが強くされたときは、外見は弱くなり自分に何一つ取り柄がないと思われたとき、見えない神を心の目でみたときでした。
この一瞬だけ強くされたときは、自分の力に何一つ頼ることも期待を寄せることもできず、たた主を仰ぐことしかできなかったときでした。サムソンのように生 涯を閉じる短い時間に主を受け入れる場合もあるでしょう。けれども、幼い頃からできれば生まれてすぐにでも、すべてが主からくると理解できて、いつも祈り 求める知恵を得ている人は幸いです。
私たちの主は、私たちの力の源です。弱いときだけ助けてくださる方、少しだけ力を襲えてくださる方なのではなく、もともと、自分の力だと思っている力、魅 力そのどの一つも残らず主のものです。ひとつのこらずぜんぶ主からから来ているのです。
 主が許してくださるなら、私たちの生涯の最期になってからではなく、今ことのときから、主に祈り求めいつも新しい力を主からいただくものでありましょ う。
サムソンについて「困ったとき必至になって主を呼び求めたら、弱いわたしたちを助けてくださる」と読んでも間違いとまではいえません。しかし、聖書を読む とき、私たちの弱さを補うだけの方だというのは正しくないのです。力も賜物も全部、全部主から来ます。自分のものではなく、すべては主からいただいた賜物 なのであれば、賜物が増し加えられ、豊かになるようにますます祈りもとめようではありませんか。そう祈っておられないのだとしたら、もしかしたら、賜物を 自分のものだと思いこんでいるからなのではありませんか。
 自分の力だと思っていたものはそれはすべて主からの預けられた賜物です。力や能力もすべて主からくるのです。
 そう信じて、ますます主により頼み、もっともっと豊かにされようではありませんか。

(The End)