Tokyo 9月18日(月) 
     
  「中立は存在しない」とは、宇田先生からバンティルの弁証学の本質のひとつのテーマとして教えていただきました。
 対立しているどちらにもつかないというのは、公正なように見えて、実は態度を留保しているだけではないか。官僚用語として「中立」も「公平」も使われ、内実は、権力に立つ側が、選択の余地を与えず、なにかを押しつけたいときに使うテクニカルタームでしかないのでした。
 たとえば安部政権に反対をあきらかにせず「中立」を装って沈黙するだけなら、黙っていることはすなわち「賛成している」とみなされます。心でどれだけ反対していると考えていても明確に意思表示しなければ「賛成している」とみなされるのです。
 反対も賛成もできないというのは公正さを繕っただけであり、愚かな優柔不断の態度に過ぎません。
 それでも「バンティルの弁証学の限界」のようなものはその後学ぶ機会を得たのですが、現在のわたしはバンティル崇拝主義者ではありません。それでもホームエジュケーションを選択したとき、学校教育が示す「中立論」に歯止めをかけてくれたのが「中立は存在しない」というバンティルの認識論でした。それゆえに宇田先生との出会いは、やはり主の摂理のなかにあったとしか考えられません。
 キリスト者と非キリスト者が共有できる認識の世界があり、カイパー以来、それは一般恩恵論として議論のテーマとなりました。「神は悪者にも善人にも、等しく太陽の恵みを与えてくださる」のであれば、キリスト者でない人々にもキリストの贖いの恵みは及ぶのであるが、キリスト者にとっては、一般恩恵は恵みの上にさらに恵みと祝福を重ねられるようにして与えられるのとしても、キリスト者でない者にとってみれば、どれほど一般恩恵にあずかり世俗の富や祝福に満ちていたとしても、最終的には裁きのときに「言い逃れのできない実績」としてだけ記録されているのであり、そうだとしたら恵みの形はとっていても、“一般的呪詛”と呼ばれるべきではないかとカイパーの恩恵論にたつスキルダーも述べます。
 キリスト者でない者にたいして与えられる一般恩恵は存在していても、結局、それらすべては「主のみ前で言い逃れができなくされる」ためのアリバイでしかなくなるというのは、私が認識できる、世に存在する最も恐ろしい現象です。神の手に陥る。それよりも恐ろしいことはないからです。一時でも早く悔い改めなければなりません。
 一般恩恵論は、キリスト者に世俗のすべてを神に起源をもつと理解させさられ感謝が増し加えられる一方で、キリスト者に「霊で蒔かれたものを肉で刈り取る」という世俗化の錯誤をカルビニストたちにもたらしました。キリスト者は地上に住みながら天国の住民として、地上でなく来るべき天に安住の地を求めるべきだからです。その意味でカルビニストへの敬虔主義からの批判は的はずれなところがたくさんあるとはいえ、カルビニストたちにみる世俗主義や常識主義を信仰の実と混同するという錯誤が指摘されているとみて、パイエティズムからの批判を主からの指摘として謙虚に受け止める態度が必要かと考えます。