Tokyo 9月14日(木) 
     
平等主義
 
 士師の女傑であったデボラを、女性長老や女性教職の根拠とする場合がありますが聖書解釈の上で無理があります。女性長老の問題は、女性が教会の指導者になるというテーマとは違い、平等主義をもちこむことはできない分野であると考えます。一方で、礼典を執行できるのは按手を受けた教職に限るという伝統的立場はカトリックを含めてプロテスタントの教義でもありますが、「洗礼を受けた信徒は、誰でも礼典執行が可能」というこれも平等主義にたつとき、教会の基礎が壊され、教会の破壊につながります。
 ルターがいう「万人祭司」を誤解して「信徒の平等論」だけで“横車をおして”究極まで推し進めるとそういうことになります。内村鑑三の文にも「教職と信徒の区別は無用」という言葉がみえましたが、非常に精巧にできている機械がねじひとつで動かなくなるように、これによって教会論の要が攻撃され、キリスト教全体が成り立たなくないります。アナバプティトの傍流にそのような教職論がみられましたので、内村の無教会主義とアナバブテスト運動はどこかで通じている教えがあるのでしょう。
 洗礼と聖餐は、神に起源をもつのであり、(いえ、もともと神に起源をもたないものは何一つ存在していないのですが)洗礼と聖餐は、「存在のすべては神に依存している」という事実を知らせる意味があるのでしょう。
 聖餐ではさらにキリストとの融合が教えられているのであり、人知を超えた事実なのでした。聖餐が主の業を記念するという“メモリアル”という形式とみなすツイングリの考え方に近いものがプロテスタントに廣く流布していて、カルビン主義の教会でも、福音主義教会の影響の下で「キリスト祈念式」のような形式論の思惑が強いのですが、“キリストとの神秘的結合”が強調されなければならないのではないかと思います。カルビンの考え方なかに、カトリックの聖餐論を聖書的に改革するという一面があったにせよ、洗礼や聖餐のもつ基礎を信仰の基礎から切り離して形骸化する傾向がみられたのは否めないのではないでしょうか。
 教職は神に起源をもつ“特権階級”ではないということが常に教えられ続けなければいつの世でも教会は堕落し、“リーダーシップ”の名のもとに牧師が神格化してしまうのは目に見えていました。“リーダーシップ”という考え方も、世俗の会社マネージメント論をそのまま教会に引き込もうとするようにみえて、どうしても馴染めません。
 ルターの聖餐論とツイングリの聖餐論の“中庸”がカルビン主義といえるのかどうか。それもカルビンの聖餐論はもっとルターに近いものだったと理解していますが、どうだったか・・・「キリスト教綱要」をもういちど読み返してみたいと思います。