Tokyo 9月10日(日) 
     
 助けは主のもとから来る

 困ったときに神仏に祈り求めるのは、すべての人の心に神の“印”が焼き付けられているからであるといえます。強い人は神など頼らず、自力で解決しようとするのであり、何かというと神仏により頼もうとするのは弱い人のやることであるとされます。常に鍛錬して自分の力や能力や技術を磨いていれば、神に頼るような“愚か”はしないと。
 いつもは神など信じていないとして見向きもしない人が、万策尽きて、前も後ろも右も左も行先を見失ったとき最後に残されている天を仰ぎ“祈り”の心が生まれるのです。それも、“どうして自分だけがこんなめにあったのか”と神を呪うのではなく、“どうしてこのような苦しみにあっているのか”意味を尋ね求め、そしてどん底から救い出されるのを願うのでしょう。 
 キリスト者も困ったとき父なる神に救済を祈り求めます。それが“困ったときの神頼み”と違うのは、生まれてから受けている生命の根源が神に依存しているのであり、自分の力は例外なくすべて神から預けられ任されている「借り物」だという事実を知っていることです。神の力なくしては、髪の毛一本を白くも黒くもできないと主イエスは語りました。
 力の根源は主からくるのであり、すべては賜物として貸していただいているに過ぎないのであり、人は生涯それを正しく管理して、主を愛し隣人を愛するために最大限に活用しなければなりません。人は賜物の管理人であるという考え方で「スチュワードシップ」とも呼ばれます。
 父なる神は、人が困ったとき助けを与えさせ、祈り求めるように仕向けられます。人が知らなければならないのは、自分の能力と思っているすべてが父なる神から委ねられているという態度でした。すべての力や能力が神の賜物だと理解できたなら、その人は力を自慢したり、ほかの人を見下げたりしません。上から目線とはならないのです。
 力のすべてが神からの賜物であると理解できた人に最初に与えられる性格は“謙遜”です。「モーセは民のなかで最も謙遜だった」といわれるとき、ただ“腰が低かった”とかいう他人への態度が言われているのではなく、自分が任されている能力が何か、どのように管理したらいいか理解できていたという意味です。
 モーセのように最初から「すべての力は主からくる」と理解できている人もあれば、生涯が閉じられる最後の一瞬にそれが理解できたサムソンのような人もいるのですが、願わくば幼いころから、すべては主からの賜物であると理解できているなら幸いです。
 聖餐と同じように、洗礼の祝福は、人の理解を超えた不思議なものです。おそらくその賜物は多岐にわたるであろうと考えます。成人洗礼によって与えられる賜物も数えきれないでしょうけれど、とりわけ幼児洗礼から生み出される賜物はいくつかあります。自分が生まれる前から両親を通じてすでに主に繋げられていると自覚できるところがその一つだと思います。