Tokyo 9月3日(日) 
     
ノーマライゼーション

 “障害”者という言葉そのものが問題で、害という漢字があてられることに差別意識がはじめから込められいる。もともとの「障碍」を使うべきだともいわれます。もともと“普通の人”と“そうでない人”という区分け方が生まれるのは、たとえば軍隊に入隊できるかできないかを基準としたところから派生したものであり、国家によってそうされた歴史があったのですが、聖書をみると、古来から病気やハンディのある人たちが社会的に下層の人々とみられていた歴史は過去にありました。
 “健常”と“障碍”という区別を認めた上で、“障碍”をどのように受け止めるかという考え方の基礎の部分が明確でなければ、ノーマライゼーションという言葉だけが一人歩きして、意味が理解されないままあちこちで使われはじめます。いえ、たとえ表向きであっても言葉が使われるのはいいじゃないかというみかたもあり、確かに“なんでもダメ”というのはいただけません。
 人は年を重ねると、体のあちこちが故障をおこします。そういう意味では、一応健常者のなかまに入っていると自覚している人でさえ、“障碍者予備軍”といえることに気づきます。ノーマライゼーションの考え方の基礎においては、「たまたま本人が意図しないところで、“早期に”障碍をもつことによって、たくさんの不幸が飛び込んできたという考え方」をしません。たとえば障碍をもった人が暮らしやすい社会インフラ、たとえば道やトイレなどを整備していけば、結局すべての人にとって暮らしやすい社会が実現できると考えられるのです。そのため、社会から隔離された施設などに収容するというのではなく、社会インフラや社会通念そのものを、障碍をもつ人たちが普通の生活をしやすいように構築しなおすべきであると考えます。“ユニバーサルデザイン”というトイレは誰でも使えるのですが、一つの事例です。そう考えると、「障碍者は、社会全体を良くするために与えられた神からのギフトである」という考えを基礎にするのは必然なのでした。
 さらにノーマライゼーションをめぐる闘いは、社会インフラを再構築させるという面ばかりではなく、“官僚制度”が動き出すところで、新たな別の闘いが生まれます。ここでも官僚たちは“良いノーマライゼーション”と“悪いノーマライゼーション”を仕切るように動く傾向があるのであり、“善し悪し”を常に「天下り先」を省益や官益を基準として自分たちの都合がいいように取り込むように動き出すのでした。官僚たちが動き出してノーマライゼションを行政のなかに組み込むというのは決して悪いことではないと考えます。行政が動くというのは常識化するための一歩だからです。
 それにしても“不登校児”を障害者扱いして、精神病治療の対象者とし、薬漬けにしてきたのも、このような官僚たちが悪さをしてきた結果です。(子どもたちはいじめなど嫌なことがあって学校に行きたくない、それだけであり、病気でもなんでもないからです。麻生さん発言が問題とされていますが、文科省がこれまでやってきたことはなんのことはない“ナチスの真似”そのものです。)
 そのようなわけで、ノーマライゼーションを“常態化”という訳語を与えられるのですが、“障碍をもっても、もたなくても、普通の人が普通に生活できるような社会を実現する”というのはほんとうは並大抵のことではありません。インフラ整備など都市計画や“強いては”公教育のカリキュラム編成にもかかわるからです。(公共の教育プログラムが試験による選別・差別システムに依存してきたため、まったく新しいものに刷新されなければならないという意味です。)
 ノーマライゼーションの考え方を受け入れない安部グループのような反社会的組織が現行政府を牛耳っていることがいかに問題であることでしょう。
 駅にエレベーターを何基も導入できる膨大なお金を、一発の高価な武器を米国から購入するために使うとしたら・・・。
 ひどいことです。