Tokyo 9月1日(金) 
     
「学校に行かなくていい」から、「学校に行かせなくていい」へ

 子どもたちの不登校が引き金になることがあります。それがホームエジュケーションをはじめるきっかけになることが多いのです。
 ホームエジュケーションこそ“もう学校に行かなくていい”といえる真骨頂。しかし、“不登校からホームエジュケーション”というケースは決して少なくないのですが、子どもたちのなかに学校がもたらす心の傷を長く引きずることになります。心の癒しについてかならず解決が見いだせるという確かな希望がみえるかどうかが鍵。それと、親の側にも問題が残り、“教育は親だけではなく、教育の専門家や、集団に預けなければ完成しない”という信念が植え付けられている場合、親は学校に失望した後に、新たな子どもの“居場所”を家庭の外に求めようとします。子どもたちにとって、親は自分たちが四六時中家にいることを全面的に受け入れてくれないという焦燥感と闘わなければならず、前述の学校から受けた傷が癒されないまま、家の外に解決策・・・といっても、子どものためではなく、親の安心感の落としどころという意味で“家の外”を追い求める結果になります。
 ホームエジュケーションにおいて親がはじめから「学校に行かせなくてもいい」という教育論を確立しているか否かはとても大きいのです。キリスト者であれば聖書的人生観と世界観に基づいて子どもを養い育てたいという確固たる目標をもてるに違いありません。ホームエジュケーションへの期待という面からいえば、いわゆる“英才教育”の実践を見る場合があります。ホームエジュケーションが古来おこなわれてきた歴史はいわゆる富裕層の親が子どもの養育を、烏合の衆の集いとなるような学校任せにしないで、家柄にふさわしい教育を与えたいと願うところから始めれてきた事例が多いのです。
 学校制度が発達していなかった時代は、ほとんどの子どもが学校なしに育ちましたので、偉人列伝に出てくる有名な人物を“ホームスクール”と呼ぶのは全く間違いというわけではありません。私も偉人列伝のようなものをしばしば引用します。ただ、学校制度がいまほど全般ではなかったため、影響力が少なかったというだけなのだというのも正しくないと思われます。
 「家庭の教育力が学校制度の発達によって阻害され、劣化してきた事実を自覚したうえで、家庭の教育力を取り戻す運動」が今日世界の潮流になっているホームエジュケーション運動なのだとわたしは思います。

 化けの皮がはがれる
  小池知事の「関東大震災時の朝鮮人虐殺」の事実を明確に否定したと報じられていて、それまでマスコミの粉飾によって覆われていた事実があきらかになりました。小池さんは歴史修正主義の立場を堅持しています。それこそ「白く塗った墓」の内実があきらかになっただけでも、一歩前進なのですが、いまだに小池さん人気が、“ねつ造によってつくられた虚像”なのだと理解できない東京都民が多すぎです。石原知事の時代も、不正選挙によってつくられた虚像であったとしたら、都民の真意が政治に伝わらなくなっていて、事実上テロリストたちによる支配のもとに屈しているという認識が必要なのでしょう。権力をもつ側が、都民のこと、日本のこと、日本民族の利益を何も考えていないというのは驚くべき事実です。危機感を持たなければなりません。え、Jアラート?あんなのはたた危機を扇動してぼろぼろの政権が沈没しないように“危険回避”しているに過ぎません。わたしは個人崇拝を慎重に避けつつ言うのですが、山本太郎さんが国会答弁で述べた事実こそ国民の最低限の健康を守るための政策を引き出す鍵になると思います。つまり言い換えれば、放射能汚染の実態を一つも伝えず、安全宣言を出して帰還の許可だけをやっている国家は、すでに棄民政策に手をつけているのであり、とっくのむかしにナチスのような大量虐殺に手を染めているとみさなければなりません。