Tokyo 8月28日(月) 
     
 常識という壁
 いつか読んだ本に、イギリス人は常識をつくるために議論するということを読んだことがあります。本の題名は忘れましたが。コモンセンスが形造られるために最も敏感なのが現行政府なのかもしれません。いまや創価学会と政治が密接に結びつき、政教分離原則が根こそぎ無効化されている状態を誰も問題にしなくなりました。放射能汚染がまるでゼロになったかのような印象操作もいまだに健在です。福島の原発事故はいまだに収束されているのではなく、安部さんの“アンダーコントロール”という虚言に支配されているかのように、オリンピック開催が強行されようとしています。かくして常識とは成り行きではなく、そのように意図しているという側面があると認識していなければなりません。
 聖書を常識の範囲でしか理解しようとしないのがいかに愚かな所作でしょう。聖書は常識のもとに人をひれ伏すさせるのではなく、むしろ日本でも常識を造り出す役割を果たしてきました。「公営遊郭の廃止」の実現のためにはキリスト者の役割が大きかったのです。それ以前にも、太陽暦の導入やすでに常識化している日曜休日も聖書的人生観や世界観が影響しているといえます。一夫一婦制を打ち壊そうとする動きは古今東西どこにでもありましたが、結婚制度の基礎には聖書的結婚観が存在します。

 世の常識を形成するのが聖書の役割だった筈です。それが塩気を保つという意味だったはずです。ところが「常識の哲学」は説教者たちにも入り込んでいます。内的格闘を経て聖書釈義の結果、常識的な結論にたどり着くこともあります。けれども聖書は時間と空間を超えて語られるべきです。人の知恵ではなく聖霊の力によるべきだからです。
 たとえば“仲良くしましょう”というのは世俗の常識哲学でも語れるでしょう。しかし、キリスト者の交わりのなかで、“仲良くしましょう”と語られたとしてもそれが人の能力を超えた聖霊の働きであり、聖霊の生み出す“実”であると語られなければ、それこそ“塩気を失った説教”となります。
 戦争反対と唱えるのは、社会変革を福音宣教にともなう必要条件と考えるグループにみられるのですが、もし反戦だけを聖書に読むとしたら、世俗思想に侵略されて換骨奪胎されてしまっていたとしても、自覚できないという病に陥っていることになります。

 憲法9条が世界平和をつくるために貢献してきたという事実はもっと世界にたいして常識化しなければなりません。なにも説教で憲法9条を守ろうとか言う意味ではなく日本国憲法のすばらしさを常識化して、世界に知らせることは日本人キリスト者の意識下に常におかれなければならないと私は思います。“できちゃった婚”というマスコミの作り出した“性の常識”とも闘わなければなりません。NHKは天皇と天皇家を偶像とし、特別な人種であるかのように宣伝していますが、天皇家を守るという面では、皇族の皆様の人間としての最低の自由や権利を奪う制度は廃止されるように求めるべきです。反対に、天皇制はおもてむきの平等主義と差別思想や優生学を並立されるような問題のある制度でもあるということを認識しておかなれければなりません。マスコミにたいする過度の信頼はせめて西欧並みに打ち壊されるべきです。“常識”を聖書に裏打ちされた価値観によって作り出すための闘いが、キリスト者の世にある闘いであると教えられなければなりません。「仲良くしましょう」だけをメッセージの中心に据えるようになったら説教はおしまいです。あるべきところから堕落しているとみなされるべきです。そのどこにキリストが働かれるのでしょう。子どもは一日も学校に行かなかったとしても家庭だけで社会性と知性をみにつけて立派に育つという「世界の常識」を日本でも常識化しなければなりません。