Tokyo 8月19日(土) 
     
 ニュートラ ル製造装置

 クリッカ弁護士が、学校教育制度が生み出す価値観について批判した書に出てくる言葉。中庸の否定はC・バンティルの弁証学でしばしば取り上げられる概念。
 何にでも白黒つけよという教えではないのであり、クリッカ弁護士が学校について指摘する“中庸製造器”にかけると、子どもたちが小学校に通うまでに家庭教育で育まれたキリスト信仰について、「子どもの頃から、一つの価値観に縛られるのはよくないのであり、物事が判別できるようになってから、自分で選択するようになれるのが最善」とされるのでした。一見まともにきこえますが、実際は学校教育には、はじめから変更が許されていない哲学的前提が据えられています。
 子どもたちは、そこで信仰の価値を「ニュートラル化」され、“多元主義の大河”に飲み込まれ、やがてものごとが判断できるような年代になると、「あの頃は、子どもだったので親から言われたことをそのまま信じていたが、今は大人になったので自分の意志でキリスト信仰を捨てる」といって教会を去る子どもたちが後を絶たなかったのでした。
 それはなにも日本だけでおこってきた現象ではなく、米国はもちろん世界各地で現在もおきている現象といえます。
 学校教育は、もともと子どもたちの聖書信仰を消そうと意図しているというのはおそらく事実に沿わないでしょう。国家がおこなう教育について、“すべての人にとって最善とみなされる政策”を提供しようとしているのですが、公教育で宗教教育が否定されるに至るプロセスのなかで「世の中いろいろな宗教があるが、信じるも信じないのも本人の自由。親が正しいこと言っていたとしても、最終的に信じるか信じないかは本人の意志」であるといわれるのです。
 このような言い方は、「幼児洗礼論」が語られるなか、古来から欧米の近代プロテスタントにみられた考え方で、非常にまともな意見を言っているように聞こえながら、実ははじめから「信仰の相対化」に足元をすくわれているのでした。
 親の立場からして信仰を子どもたちが受け継いでりっぱに継承してほしいという志を与えられたとしても学校教育が最大の障壁となります。
 障壁の要素の一つが進化論哲学。学校教育の双璧ともいえるのが「ニュートラル化装置」であり、教師は親の言うことは継承するのは大切でないとはいわないが、もっと大切なのは自分の頭で考えて自分の意志で選択できることだ・・・とかいうようになります。
 学校で鍛えられる信仰でなければならないとか、学校で信じていない子どもたちに伝道できるような強い信仰が養なわれなければならないというのですが、結果は死屍累々。
 オルタナティブ(選択可能性)は優れた考え方です。
 ただし学校教育でいわれている選択可能性は、子どもたちが自分の意志で選択しているかのようにみせる“疑似オルタナティブ”であるとマイク・ドゥニー弁護士は言います。
 キリスト者は国家や組織に対してオルタナティブを要求すべきなのですが、歴史的信条や継承すべき信仰についてオルタナティビティははじめから存在していません。「信仰は主から召命」と理解するところが信仰の出発点とされるべきです。常にボランタリーが求められるとしても、神の意志が優先されます。神様を信じるか信じないかは子どもの意志ではなく、親の意志が大きくかかわりますが、最終的には神の意志が先行しています。(蛇足ですが、学校教育の教える世俗の選択可能哲学だけに縛られていていると聖書の聖定論が理解できず、結果として絶対に幼児洗礼を受け入れることはできません。)
 選択可能といいながら、進化論哲学は公然と真理であるかのように教えられ、自分の意志で・・・というところで、結局、理性主義哲学を教え込まれています。なぜ日本のキリスト者たちが学校教育のさまざまな問題点を見てこなかったのかいまだに解明できていません。とりわけ日本では改革主義を標榜しているプロテスタントでありながら、公教育に子どもを預けることを少しも疑わないようにみえるのはどうしてなのでしょう。