Tokyo 8月14日(月) 
     
 「北朝鮮」という国がなぜ生まれたのか

 戦争がなぜおきるのかをたぐっていくと、そこには必ず宗教が存在する。キリスト教も例外なく、自分の正義を確信して、相手に不正義のレッテルを貼って戦争してきた。キリスト教への批判の一つの言い方でした。

 これまで過去に世界のなかで地域戦争が引き起こされた理由を「正義の哲学」に由来すると考えるとそのようにも言えるかもしれません。近代戦争の実相は、武器商人たちが、市場開拓をねらっていたのであり、自国以外の国に、争いごとを見つけ出し、2つのグループそれぞれと武器の取引を成立させ一儲け。さらに内乱にかこつけて双方に自分らの武器を売って戦争させるように仕向けて、やがて戦争が終わったあと、和平の顔をして勝者に近づき、経済復興の名のもとにまた一儲け、そのようにして“漁夫の利を得る”というやりかたが繰り返されてきたのでした。
 世俗のキリスト教批判を基礎にして聖書解釈をすると、聖書のオリジナルの使信を読み違えます。世の人たちが納得するように、聖書の意味を現代人にわかりやすい意味で再解釈するというのが「現代神学」を理解する上での鍵のひとつです。科学的・・・という名の理性主義をもちだして聖書の信憑性を証明しようとするのは諸刃の刃であり、聖書を“非科学的”といって分断し、信用できるテキストと信用できないテキストを取捨選択するというところで、伝統的聖書信仰がトータルとして受け入れていないのでした。進化論が“科学的証明”に裏付けられたとみなされるやいなや、聖書権威そのものを疑うことからはじまり、やがてはイエスが地上で存在したかどうかまでをも否定する学者があらわれたとしてもそれは必然だったともいえるでしょう。

 説教が塩気を失うとき、伝えるメッセージは、ただ人と人との結びつきを尊ぶ“共産思想”の礼賛に道を譲らざるを得なくなります。
 朝鮮半島において、北朝鮮が南と分断した背景のひとつに、日本の支配への抵抗勢力(パルチザン)らの地下活動があったとみられ、もうひとつには、北のピョンヤンがほぼキリスト教化していたところに入り込んだ“無教会思想”があったとされます。

 “無教会思想”とは言うまでもなく、内村鑑三を祖とする近代キリスト教思想であり、たくさんの韓国人留学生がとりわけ東京大学において日本の無教会思想を取り入れて、ピョンヤンに戻り、「教会批判」をはじめたのでした。教会から信徒は去り、「平等」や「共有」を旗印にした共産思想に支配されたのはその後です。キリスト教の日本への適応形態とみなされる内村鑑三とその信仰は、アメリカナイズされていたばかりでなく、見える教会を蔑視することにつながりかねない新神学をもたらしました。見える教会が戦争に荷担する旗振りをはじめていたため、やむにやまれぬ選択肢だったという言い方もありますが、選んだ道は「異端」と紙一重の新思想でした。(もっとも、内村の信仰を継承した人々すべてが教会否定したのではなく、健全な地域教会を形成している事例も多数あり、内村鑑三にどのように伝統的キリスト教が継承されているかということは彼を理解する上の大切な鍵となると考えます。蛇足ですが、「チアにっぽん」の背景である“丸森グループ”が内村思想からの影響を色濃く引いていることはすでに指摘した通りです。子どもを生まれてすぐに家族からひきはなし幼児期から丸森共同体で育てるとか、地域教会を敵視しキリストのものと認めない等々)
 リベラリズムがもたらしたのは脱キリスト教化した世俗思想ばかりでなく、ヒューマニズムから派生した共産主義思想も含まれました。北朝鮮という奇怪な国を生み出した背景に、反教会を生み出す聖書信仰の相対化が存在したことを知らなければなりません。