Tokyo 8月13日(日) 
     
 “李下に冠 を正さず”。“李下(りか)”とはスモモの木の下という意味で、君子がスモモの木の下で曲がった冠を直すと、スモモを盗んでいると誤解されるかもしれないから、人から誤解されるような行動には気をつけるようにとの中国のことわざ。
 “誤解を恐れずに言うと”が東大用語の一つに加えられているので、いちいち人がどう思うかなど気遣っていては大きな仕事ができないと一蹴される場面もありそうです。小さな事柄に気遣える人なら、大きな事も任せられるともいわれるのであり、人からどう思われようと知ったことかという傍若無人さを称えるより、ことわざにみえる他人への気遣いの質を高めたいと願っているところです。

 説教のなかで、“わかりやすく説明したい”という趣旨で、聴いている人の聴き馴染んだテーマに触れることがあります。体験談、映画の話題、学生時代の失敗談等など。自分がどういう暮らしぶりをしているのか自慢したいという意図はないのでしょうけれども、どれほど失敗談を紹介して導入に結びつけたところで、自分の職歴や学歴を披瀝するような結果になったとしたら意味がないどころか、逆効果です。学歴について劣等感や優越感、それに日本では人の評価にさえ繋がってしまう文化であるため、どのような学校生活をおくったかを含めて、経験談は避けるべきだと思います。聖書をわかりやすく説明できないどころか、聖書よりも説教者の自慢話が全面にでるとしたら最悪だからです。
 わたしも映画鑑賞が趣味のようなものですが、映画が文化として定着しているのは承知の上ですが、映画そのものは、聖書メッセージによって魂が養われることと無関係です。聖書をベースにした映画もあり、真面目な作品も多数ありますが、どれをとっても人の想像の産物であり、聖書そのものととって替えられるべき代物ではありません。聖書のリアリティを、人がつくった映画と同列におくべきではないからです。
 ものごとを“わかりやすく”説明するためには、膨大な研究と伝達のための真摯な努力が必要です。「わかりやすく説明すると」という言葉が出るだけで、人によっては上から目線ではないかと誤解されるかもしれません。自分が賢い人は、自分が賢いなどということを人前に言うことはしません。ほんとうにわかりやすく語れるなら、「わかりやすくいうと」などとは言わないのです。

 串田孫一さんも事柄をわかりやすく説明できる作家のひとりですが、たとえば小学生の子どもにもわかりやすいメッセージというのはきわめて難しいのです。ですから教会学校で、信徒になりたてみたいな若い女性を訓練のためと称して“教師”にしているというのはとんでもないなと私などは思いますね。学歴があるからとか教職資格をもっているからなどの理由だけだとすると最悪です。子どもたちが将来教会を去るようになるのは必至です。
 たとえ失敗談だとしでも、自慢話と受け取られるような例話を入れないこと。映画を批判することはあっても、映画そのものをリアリティであるかのように誤解されるような挿話を入れないこと。家柄の良さ、有名大学の学歴、華麗な職歴、美人の妻、賢い子ども、大きな持ち家、高級自家用車、マイウエブサイトのアクセス数。いやはや、罪人たちにとっては、主から与えられた賜物であるのに、そのどれひとつとっても、ヨハネが禁じている「暮らし向きの自慢」になりそうです。
 人が死の時語る遺言であれば、おそらく余計な自慢話など入れないでしょう。ですから、どのような場合でも、これを語った後、明日は死ぬかもしれないので、これがこの世で語る最後の言葉だというふうに「遺言」として語るという意識をもてばいいのかもしれません。死ぬ前なので、余計なことを言わずに、これだけはどうしても言い残しておきたいと。どうしてもこれだけは伝えようと思えば、きっとわかりやすくなるかもしれません。