Tokyo 8月4日(金) 
     
 幼い信仰。 “おさなごの信仰”というのではなく、“乳離れできない信仰”という意味。
  牧師がある信徒を“かわいがる”あまりに、自分の説教しか聴けないようにしてしまうとか、自分の教会の牧師の説教といつも比較したがるとか、幼稚な信仰のひとつの典型です。信徒の自立性。自分の頭で考える能力が養われない信仰の質は徹底的に聖書によって内省され、御ことばの乳によって再教育されなければなりません。
 いろいろな教会を転々とする。つまり、自分の気に入った教会を“選ぶ”ようになるとき、信仰が召命によって与えられるという原点を教えられていないまま、信仰の質を内省して、聖書的信仰に成長させていただけなかった場合、“チャーチ・ホッパー”(バッタ=グラスホッパーを皮肉に言い換えた言葉)となります。学んでいるように見えながら、いつまでも成長できません。キリスト中心ではなく自分中心となっているからです。
 聖書的にいつも内面を取り扱われ、そして教会も改革され続けるというのが、改革主義教会の古来の伝統ですが。常に聖書によって刷新される態度が失われるとき、信徒の信仰成長は止まります。
 弱い信徒への配慮が求められるという点と、たとえば信徒の良心に任せられているという、飲酒問題、政治と社会の正義や倫理などについての社会的責任を教えられていないまま、信仰の年月を重ねるとき、信仰の問題をなんら解決できなのです。教会の内部と外部で使い分ける聖俗二元論を放置され、それが未信者へのつまづきとなっているという自覚もない一方で、“禁酒禁煙”をキリスト者生活の表象や指針とするという、教会のパリサイ化が促進されます。信仰が幼い状態で自分が正しいと確信しているという人々への対応はとても難しいものです。それはなにもカルト信仰者ばかりではなく、ごく普通のキリスト者信仰のなかにも起こりえます。
 飲酒に関していえば、聖書の立場は酒類は「神からの賜物」であり、人の賜物として与えられた性が、罪のためにねじ曲げられ、サタンの具とされているのと同じように、祝福のための手段であるものが、人の堕落を促進するかもしれないという事柄に類似しています。(ちなみに、宗教改革者カルビンへの報酬のひとつは樽ワインでした。蛇足ですが、バーボン・ウィスキーは米国バブテスト系牧師の発案によるもの。)

 政治についていうと、キリスト教の立場で社会正義を確立するようにめさすべきなのであり、「地の塩」「世の光」とはそのような意味も含まれます。これは信仰を学ぶところで最初から教えられていなければなりません。
 信仰が幼いままにおかれると、教会は地の塩としての役割を果たすことができず、やがて捨てられることになります。