Tokyo 7月31日(月) 
     
 2017年 7月30日 調布南教会 礼拝説教

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創世記16章1〜16節

 アブラハムの信仰は、クリスチャン信仰の原型です。
 アブラハムの信仰は、これをもっているとご利益があるとか、なにかのお守りのようなものを信じるというのとは全く違う、聖書の示す信仰の原点が示されています。それが聖書で信仰というところの第一の特徴です。
 アブラハムの信仰という場合の、信仰の最も大きな特徴はなんでしょうか。それは、主から召されるというところ、「召命」にあります。
 アブラハムが75歳になったとき、主から「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地に行きなさい」と主から召されました。故郷を後にしたとき、主に従うと決めたのですが、さらに、子孫が与えられるときいたとき自分が産む子どもであると言われていることを受け入れることができませんでした。そのころサラも65歳でした。老年になっていたからです。「あなたから生まれ出るものが、あなたの跡を継がなければならない」と告げられたのでした。
 老年になっていて、なお子どもが与えられるという召しにたいして、アブラハムはすべてにおいて信仰を働かさなければなりませんでした。アブラハムへの召命は、人の想像や知識を超えていたからです。人の知識や経験を超えたところを信仰は指し示すのですが、パウロによれば、人が動かされるとき、最も重要なものが信仰と呼ばれるのでした。
 信仰の原点はアブラハムにあり、アブラハムの信仰は主からの召しに従うところにありました。
 アブラハムの信仰というとき、新約聖書のなかでもいくつかの箇所に紹介されていますが、信仰の父、信仰の模範とみなされるのでした。妻のサラについても、ペテロは理想の妻の姿として紹介しています。
 ところが、創世記の記事を読み返すとき、アブラハムを完全無欠の人とは記録していないのです。むしろ、アブラハムは信仰を失ったのではないか、不信仰に陥ったのではないかと思われる箇所でした。
 当然ながら、老齢になっている夫婦に子どもが生まれるという主の召しに従うのは難しかったようです。主の声を聴いてからさらに10年を経過して、75歳となり、サラは65歳であり子どもは生まれませんでしたから、パウロによれば「死んだも同然の体になっていた」わけで、サラの提案は、アブラハムの信仰に逆らったからではなく、「一番現実的な方法」を思いついたのでした。
 アブラハムもそれに同意したのは、そのほうが信じやすかったからです。
 サラは、奴隷として自分に仕えていたエジプト出身のハガルをアブラハムの懐にあたえ、ハガルによって子孫が生み出されると考えました。主が求めておられる夫婦のありかたではなかったのですが、奴隷によって家の継承がおこなわれるというのは当時の社会習慣として認められていました。
 アブラハムがサラの提案を受け入れたのであれば、いったい信仰はどうなっていたのでしょう。アブラハムへの約束を「見えるところ」で実現しようとしたのです。パウロの言い方に従えば、信仰から始まったところを肉によって完成させようとしたのでした。
 アブラハムと妻サラは、自分が蒔いたものを刈り取るようになったのです。
 
 信仰の結果について、落としどころを、自分の納得できる範囲に留めてしまうというのはアブラハムとサラに限らず、すべてのクリスチャンにおこりうる、なんと言いますか揺らぎでした。聖書に書かれている奇跡は信じることができないので、奇跡をすべて現代人の理性でわかるように事実を置き換えるなど。

 「事実」には見える事実と見えない事実があります。
 見えないから事実ではないということはありません。見えない事実を事実として受け入れることが信仰と呼ばれます。それがキリスト信仰の第二の特徴です。科学が事実を述べていると言われますが、たぶんそうだろうという人の理性に基づいた憶測が多く含まれます。見えること、五感で感じることに限られているからですが、信仰は、もともと人の能力には縛られていません。人の人徳にも縛られていないのです。りっぱな人だから信仰を与えたのではありません。アブラハムも妻サラも、人としての弱さをもち、ときにはあきらかな罪に足下を奪われるような人でした。
 聖書によれば、主に用いられた人たちは信仰深い人々ですが、完全無欠な人ではありませんでした。人が憬れられるとか、模範とされるのはすばらしいのですが、主が人を召されるとき、必ずしも人が想像しうるような方法をとられないのです。人間的に優れた人を選ばれたときもあるにせよ、常に優れた人を活用するなどではないのです。

 このような罪にもかかわらず、主の約束は変わりませんでした。主のご計画が先にあり、人の状態によって変更されたり失われたりすることはないのです。わたしたちは人生のなかで、罪から離れて完成を目指さなければなりませんが、主の約束と召しは、人がどうあるかによって無効にされたり変更されたりもしないのです。イエス様は、アブラハムとサラの罪のためにも死なれたのです。

 不信仰によって約束が無効にならなかったとしても、アブラハムもサラも、いえハガルも、霊によって蒔かれたものを、肉によって刈り取ろうとした苦い結果を経験しなければなりませんでした。 ハガルはアブラハムの子を宿したとき、サラを見下すようになりました。家族の平和のために、サラの苦情を受け入れざるをえなかったのです。サラはハガルに仕返しをしていじめ、ハガルはアブラハムの家を一時逃げなければなりませんでした。アブラハムとサラのあいだに子どもが生まれたのは、そこからさらに10年を経過し、アブラハム100歳、そしてサラは90歳。ハガルが事実上の長男であったイシュマエルを産んだ14年あとの出来事でした。アブラハムの悩みは、自分の実子であるイサクが生まれた後も消えませんでした。13歳年上のイシュマエルがイサクをからかってるのを目にしたサラが、またハガルとその子どもへの苦情をつたえ、アブラハムの悩みの種となっていたのです。
(21:8−13)

 主の召しに従い、従い通したところに信仰が働いていたのです。
 信仰の召命というとき、ではハガルへの主の召しとはいったい何だったのでしょう。
自分の意志でもないのにアブラハムの妾とされ、子どもを産んでも、女主人に喜ばれるようでもなく、かえっていじめられ、逃げなければなりませんでした。けれども、聖書はハガルを一方的に被害者として扱っていません。女主人のサラのもとで傲慢な態度をとったことはハガルが非難されるべきことでした。ハガルにとっての主からの召しとは、主人であるサラに仕えて身を低くすることでありました。いま置かれているところで最善を尽くすのが主から召されたものの生き方です。これはすべてのクリスチャンに命じられています。今のあなたにとって主のためになすべき事で何が最善なのでしょう。
 ハガルの産んだイシュマエルの子孫たちは、今日のイスラム圏の人々であり、いまもキリストに立ち返っていません。しかし、アブラハムの約束がすべての民族と国民に及ぶという信仰に立つのであれば、アブラハムを尊敬し、イエス・キリストも尊敬するといわれる民族が、キリストのものとされる日がくると信じられるのではないでしょうか。