Tokyo 7月23日(日) 
     
 創造 主がアブラハムに与えた約束は、老齢になったアブラハムとサラとの間に長男が生まれるというものであり、その子孫が大いに祝福されるというものでした。サラは、自分たちはとうてい子どもが生まれるような年齢ではないので、仕え女であったハガルを示し、神の約束はハガルによって子どもを授かるという意味であるに違いないと考え、それを提案しました。

 サラの提案が功を奏して、ハガルはアブラハムの子ども宿すのですが、それによってさまざまな予期していない不幸がアブラハムの家に訪れます。ハガルは子どもができたことで、主人であったサラを見下げるような態度をとりました。サラにとって屈辱であり、「このような状態を生み出したのはあなたの責任」と夫を責め立てます。アブラハムはサラの怒りが御しがたいとみて、「いじめ」を容認したため。ハガルは絶えられずに息子をつれて逃亡。神によってもとの家に帰るように促され、戻ったあとも、今度はハガルに生まれたイシュマエルが、やがてアブラハムとサラの間に生まれたイサクを「いじめる」ようになりました。いじめの連鎖のようなものであり、サラにいじめられている母ハガルを見るにつれ、仕返しを仕掛けていたのだと思われます。これはアブラハムとって悩みの種になり、ついにサラはハガルとその息子のイシュマエルを追放することに“成功”したのでした。

 事はアブラハムが妻サラの提案を受け入れたことに端を発しています。問題を起こさせたのは「あなたのせいです」とサラは夫に詰め寄ったと聖書に書かれていて、そうも言いたくなるサラの気持ちがわかるような気もしていて、アブラハムの信仰の弱さ、アブラハムも人として特別な人だったのではなく、神の約束を疑うという「罪」をおかしたのだとみることもできます。けれども、神の約束そのものを疑ったのではなく、自分に子どもは与えられるとしても、与えられる方法を間違えたといえるのでしょう。神の奇跡的な業の数々を、すべて理性的な解釈を加えて勝手に納得するようなやりかたは、「近代の神学的思考」に起源があるのではなく、自分の見えるところ、自分の手に届くところ、自分が納得できるところに「信仰の意味」をみて勝手に納得するやりかたは、アダムの子孫である人の罪から生み出されているものなのでした。
 「復活とは必ずしも肉体の蘇生を意味しなくてもいい。その思想と考え方と生き方が弟子たちの心のなかに蘇ったのだ」という解釈は、近代ドイツ神学に流行し、たくさんのキリスト者に受け入れられてきました。すべて聖書を文字通りではなく、現代人に受け入れられやすい私的解釈を加えるようになると、キリスト教会から「塩気」が失われるもととなるのでした。

 見えないものを見ることが聖書の示す信仰です。見えるものは現実であり見えないものは現実ではないのではなく、「見ないで信じるものは幸い」なのであり、キリスト者の信仰は、誰でも一度死んで、その後主イエスのように蘇ることが現実であると受け入れるところに根ざすのです。
 聖書は、サラの提案によって信仰の揺らぎをもったアブラハムを「約束の不適格者」として退けてはいないのです。アブラハムは信仰の父であり、アブラハムへの祝福は人類への祝福となっているのでした。主の約束は人の罪にもかかわらず、変更されることはありませんでした。適格者だから信仰の父になったのではなく、たとえ罪人であったとしても祝福のゆえに約束そのものに微塵の変更もされなかったというのが創世記から学び得る事実なのでした。
 主は気まぐれに約束を変更される方ではありません。人を愛して一人子を犠牲にするほどの方は、私たちの側の変化次第によって「やっぱりやめておこう」などという方ではないのです。罪を決して許されない方ですが、神の愛の深さや広さや強さがどれほどであるのかを、人は思いはかることさえできません。

  使徒ペテロによれば、サラは「夫に従った妻」の鏡のような存在す。サラを責めるのではなく、ペテロに従って、サラの立場を理解しようとすると見えてくるものもあります。ペテロの書簡を学ぶために創世記を読み直すとき、「サラがよけいなお節介を出すから夫に悪影響を与えた」とも読めてしまうのですが、そうではなく、サラの提案は夫を愛し尊敬するがゆえの考え抜かれた提案だったのであり、たとえそれがアブラハムに与えら得れた約束から逸脱していたとしても、サラの提案がどうあれ、神から受けた約束を言われたとおりに信じていたとしたら、別の展開があったとも思われます。夫のためによかれと思った提案も、主から目をそらす方便とされてしまいました。アブラハムがサラの提案を受け入れず、自分とサラとのあいだに生まれる子どもこそが約束の子どもだといってサラの提案を受け入れない道もあったわけで、アブラハム家におこったイザコザは、サラにたいしてではなくアブラハムにたいして「夫としての責任」が問われているのだとみるべきなのでした。それでも、人のさまざまな罪にもかかわらずアブラハムへの約束は確実であるところに、私たちの信仰の落としどころを見い出すべきです。
 
 
 創世記では、ハガルについてもかなり記録を残しています。奴隷の出身でありながら、アブラハムの子イシュマエルの母になったからであり、アブラハムのゆえに服された民の先祖とされたのです。ですがハガルとイシュマエルの子孫が、今日のイスラム国家の祖先であることをどのように理解したらいいのか課題。アブラハムの血を受けつく民たちは、パウロによれば「約束の子孫」とは呼ばれませんでした。
 主がハガルとイシュマエルに示した“希望”は、聖書信仰としてどのように解釈されるべきなのでしょう。アブラハムにみた信仰の揺らぎが民族全体のゆくえと歴史そのものを左右したとみることもできます。しかし、どのような民に対してでも、希望がない民とみなすこともできないのです。
 単純に「肉によってまいたので、肉を刈り取る」といえるのかわたしにはいまのところ判断できません。けれども、やがてすべての民が「キリストを主と呼ぶ日がくるのだとしたら、ハガルそしてイシュマエルの子孫たちば優先的に必ず約束を継承する民として再生するに違いないと信じるのです。