Tokyo 7月18日(火) 
     
 八王子キリ スト告白教会 2017年7月16日 主日礼拝説教

聖書 ルカの福音書22:31−34

試練のとき信仰がなくならなかったのは恵みによる

招き ヘブル4:14−16

賛美歌 79(ほめたたえよ)
    312(いつくしみ深き)

 ◆恵みによる信仰と対比される考え方◆
 弟子たち全員が、人生の成功をこの人にかけると決心していたのでしょう。この人に従っていったら、絶対成功間違いはないと。
 たとえ投獄されても、死ななければならなかったとしても、主よあなたについて行きますと意気込んでいた弟子たちに、主は冷静にしかしきっぱりと、「これから祭司長・律法学者らに捨てられ、辱めをうけ、十字架に磔にされて殺されるが、3日目に蘇る」という意味の言葉を何度か語られていました。
 自分たちは命をかけてイエスさまに従おうと決めているのに、まるではしごを外されるように、ご自分の負けを宣言されてしまうとはどういうことかと訝しく思ったでしょう。
受難の直前に、
 「シモン・シモン、サタンが、あなたがたを麦をふるいにかけるように願って叶えられた。」と語られました。
 シモン・シモンといわれたとき、ペテロにたいしてむけられたのですが、内容はペテロをふくめた弟子たちについてのことでした。それでも、ペテロにむけて語られた意味は、弟子たちのリーダーとしての役割をはたすべき将来の役割をふまえておられたのでしょう。

 聖書はサタンについて詳しく語りません。少なくともこの箇所から知らされることは、神に許可を求めるところにいるということでした。サタンは神様のことがよくわかっています。違うところは、主は何とかして人を救おうとされるのにたいして、サタンは何とかして人を滅ぼすことを考えているところです。サタンは神と対等なところにいるのではなく、神に許可されなければなにも行動できないところです。
 「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけるように願い出て受け入れられた。」とあります。
 当時、「麦をふるいにかける」方法は、風上の上から下に麦を落とすだけ。手前に落ちたものを再び落として、中身のないものと中身の入ったものを振り分けるという方法でした。 
 中身がないからだけのものは軽くてより遠くに飛ぶが、実が入っているものは重さのためにより近くに落ちるという原理です。信仰を試すことでふるいにかけ、本物でないものを捨てるようにという意味です。 
 サタンは、主が正しいことを愛され不義を退けられるのをわかっていたことにあります。サタンは、主の正しさに取り入って、弟子たちを告発する立場に立ち、人を罠にはめ、滅びに誘おうとしていたのでした。
「たとえ死んでも主についていく」となど弟子たちは言っているけれども、どうせ中身のない籾殻だけの麦のようなものなのでしょう。あなたのご利益になないでしょうから、ひとつここで彼らが信仰と自称しているものが本物かどうか試させていただけませんかという申し出でした。
 サタンは、告発者として、弟子たちから信仰が失われ、滅びの道を行くことをもくろんでいました。サタンの悪賢さとは、主の正しさにつけいって、告発者として人を滅びの道に誘うことにあります。

 サタンにとって信仰とは「ふるいにかけて残るもの」つまり、試練に勝ちぬいて残るものが信仰の名に値するのでした。真価が試されなければ信仰に値しない。信仰が与えられるのは勝ち抜いた勝利の結果として。闘いに生き残ったものだけに約束されるのが信仰による勝利の冠でした。
 世の常識に従えば表向きには正しいかのように聞こえますが、聖書の示す信仰の本質から大きくずれてしまうのです。

  それはペテロやほかの弟子たちにもみられたものです。誰が一番偉いのかと論じあっていたのであり、ペテロは「たとえみんながつまずいても、私はつまずきません。」と自信満々とみられる発言をしていますが、そこにあった、信仰の道とは、努力し、勝ち抜いた結果、強いものに勝利を約束される道であるという考え方でした。
 ご一緒ならたとえ監獄でも死でもと豪語したにもかかわらず、ペテロの自信は、「鶏が鳴くまえに、3回わたしを知らないと言う」言葉によって打ち砕かれます。原文では、「鶏の声」が主語になっています。直訳すると「あなたが3回私を知らないというまえに、鶏が3度鳴くことはない。」ですが。鶏の声がしたら、ペテロとっては、自分がいかに弱く頼りない信仰の持ち主であるかを徹底的にビジュアルに知らされるための印として心に刻まれるように示されていたのでした。
 主がペテロの心に刻みつけようとされていたのは、自分が無力であることを徹底的に思い知らされることでした。それでもなお信仰の火だねが残っていたのは、ただ恵みによります。けれども恵みのであるのは確かですが、主による取りなしの祈りがあったからこそなのでした。
 イエスさまのみ業が適応されるとき、救われるために人に何か条件が加えられることはありません。サタンの計画がだめになったのは、ペテロが自分の無力さを心底経験して、主との繋がりをもてるのは、自分の力ではなく、ただ主の憐れみによるのだと理解したところにみられます。
ペテロもアダムの末だったとみると、サタンがしかけた罠と聞こえてもおかしくなかったのであり、「悪いのは自分ではなく、サタンだ」と責任転嫁することさえアダムの末である罪人にはありえたのですが、ペテロには幸いなことにそのような責任転嫁はみられませんでした。(61節)
鶏の声を聴くことからはじまって、ひたすら自分の罪深さを自覚させられたのみだったのでした。
 第一に、ペテロは、自分の罪深さを心底自覚したのです。そこからペテロは、他の兄弟たちを力づけるために働くようにと勧める足場を得たのです。
 試練にあう秘訣などがもしあるとしたら、試練に負けそうになるとき、思い出すべきことは、主が試練のすべてをご存じであり、なぜそのような試練にあわねばならないのかもご存じであり、そして脱出する道も備えてくださるということです。それどころか、傍らにいてくださり、わたしたちの信仰がなくならないように、強められるように祈っておられるのだと気づかなければなりません。

◆ペテロが他の弟子たちを力づけることができるとき◆
 「立ち直ったら」とあります。主はすでにペテロにたしても、試練を抜けて立ち直ることを伝えておられるのでした。ペテロが他の兄弟にたいして示すのは、「あなたも今の私のように主に立ち直ることができる」というものでした。
ペテロが他の兄弟たちに働きかけるとき、どのような働きかけ方が期待されていたのでしょう。信仰の試練に勝ちぬいて、勝ち残るための秘訣を知らせることだったでしょうか。
 ペテロには、イエス様を三度否定したような自分が残ったのであり、そのような裏切り者さえ、主は憐れみをかけてくださり、主のみ業のために用いてくださっているのであり、主が喜ばれる捧げものは、力の誇示より、砕かれた悔いた魂である。そのようなメッセージだったでしょう。
 信仰に留められているのは、完全に恵みによるのだから、どのような罪人でも主は招かれていることでしょう。主初代教会を形成されたときにとられた方法は、世の勝ち組みを集めるのではなかったのであり、むしろ、サタンの策略に飲み込まれそうになり、ときに躓き倒れ、試練に拉がれている人が、やがて主を見上げて再生し、主から力をえるそのような人々によってはじめの教会を形成されようとしていたのでした。
 主のご計画は世の習慣や法則からしたらとても不思議な方法です。世の知恵ではなく、主の知恵と方法は私たちが思いつくものとは違います。人生の成功者によるのではなく、無力を悟り、罪深いことを悟った人々によって主の群れを形成されようとしたのでした。
 4世紀にドナティスト論争といわれる論争がありました。迫害のさなか、教会を離れた者が、再び教会にもどるとき、礼典に預かることができないのではないかという論争がありました。教会は、悔い改めが伴うことを認め、受け入れるというアウグスティヌスの立場に落ち着いたのでした。原点は、ペテロのように主を裏切ったものさえ、心にとめ、祈ってくださり、ご自分のために用いてくださるという信仰の立場でした。

◆とりなし続ける主◆
 主の言葉に示されるもうひとつの真実とは、ペテロのために、「信仰がなくならないように願い、それが叶えられた」と語られているところです。ペテロをサタンの誘惑の手に委ねたまま、なにもせずに見ていたのではなく、ペテロの信仰がなくならないように願ったというのです。
 わたしたちすべてにおいても同じです。高見から見下ろすようにどうなるか様子をうかがっておられるのではなく、わたしたちのために常に休まず祈っておら れるのです。
 ローマ8:33−34
 神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神がその人を義とされたのです。罪に定めようとするのは誰ですか。死なれた方、否、復活させられた方、キリスト・イエス。その方こそが、神の右に座し、私たちのために執り成してくださるのです。

 上から見下ろしておられるのではなく、私たちとともにおられ、私たちが試練と誘惑に勝利できるように日々とりなしておられるのです。
 主はご自分が誘惑に打ち勝たれました。そして、主は、私たちを日々支えておられます。
 詩篇68:20「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を」
そして、主は、休むことなく働いておられる神です。
詩篇121:4 「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく眠ることもない。」
 主からいただける勝利は、私たちの努力やもっているものに関係なく、ただ恵みによって与えられます。そして、信仰が守られてきたのは日々、わたしたちひとりひとりのために試練や誘惑に負けないように、試練や誘惑さえ、主への信頼の糸口とされるように計らっておられる主がおられるのです。
 主が取りなしを休まない方だとしたら、わたしたちも教会を離れている兄弟姉妹のために祈り続けることを忘れてはならないでしょう。
人を滅ぼすことも救うことも主権は主にあります。
人の考えだけで滅びに定めてはならないのではないでしょうか。さまざまな理由があるにせよ、主がそのような人々を取り扱われ、罪を悔い改める心をおこしてくださらないと誰がいえるのでしょう。
 どのような試練にあっても、誘惑され滅びの道に入ったり、罪に支配されないようにしてくださるのは主です。私たちが確かに信仰にとどまっているなら、もはや罪や悪に支配されることはありません。 
The End