Tokyo 7月17日(月) 
     
 ホームスクーリング運動が政治とどのように向き合うかという課題は、日本では未開の分野。けれどもやはり米国の例を参考にするのが近道だと理解されます。ホームエジュケーションの家族が多いという点が主な理由ですが、米国と日本の違いがあるとしても、国民にとって国家とは何かという点で異なるところがみられます。つまり、草の根運動(グラスルーツムーブメント)であるところから、国家からみると、ときには政治批判をするかもしれない脅威とみえたり、反対に、官僚制度からみるといかに国家戦略に取り込めるか、官僚たちの〈天下り先〉を創設できるかを常に睨んでいるからです。
 米国の場合、ホームエジュケーションを政治的課題に掲げるたとえば議員のことを話題としないわけではありません。けれども基本的スタンスとして「国家の教育戦略を信用しない」という文化が養われています。とりわけホームスクーリング運動の場合、家族の独立性と教育力にかかわる運動であるとみるとき、国家の教育戦略への脅威とみえるところから、政府がホームスクーリング運動を取り込むことはあっても、支援するというスタンスはもともと存在しないとみるべきとされます。ホームスクーリング運動が国から支援を受けるとか、議員の力を利用するとかいうレベルでいくと、議員がホームスクーリング運動に理解を示して、ロビー活動の糸口にされるという場面があっても、「国に財政的精神的支援を要請する」ことは全くの禁じ手となるのでした。
 国家の教育戦略から自由であるか。国家が「ホームスクーリング認定制度」を導入するような場合、日本であれどのような国であれ、国は「良いホームスクーリングと悪いホームスクーリング」を判別しようとする(仕分けしようとする)のです。そうなるとホームスクーラーは、国に好まれるようなホームスクーリングを実践するようになるのです。その上でたとえば“合格した”ホームスクーラーに経済的な支援がだされるなどという段階になると、すでにかなり劣化は進んでいて、やがてホームスクーリング運動が根絶やしにされる種が植えられているとみなければなりません。
 まとめてみます。
(1)認可制度は、ホームスクーリング運動が劣化しはじめるサインです。
(2)経済的支援は、ホームスクーリング運動を根絶やしにするための国家戦略のひとつです。
 このような 国家の傾向にたいして、ホームスクーラーが無批判になる傾向を生み出すネットワークはホームスクーリング運動を強化するために役立ちません。国家への健全な批判的態度が養われる必要があるのですが、江戸時代からの精神的な負の遺産により国家批判には「共産」だの「左翼」だのというレッテルがつきまとうため日本人のなかにホームスクーリング運動が根付くのは、米国に比べてものすごく時間がかかるに違いないでしょう。
 認可されるか認可されないかにかかわりなく、ホームスクーリング本来の独立性を維持できる戦略をもてるかどうかでしょう。経済的独立とはたとえばネットワークのなかに支援体制があるということとは別です。地域ごとにネットワークが存在して、経済的支援体制があるというのは望ましいからです。
 「公立学校」を維持するための基本原則は、ホームスクーリング運動にたいしても変わらないと考えます。たとえいまはやりの“特区”という言い方をしたとしても、国家=官僚制度がどのようにグラスルーツ運動にたいして偏向を与えるか習熟していなければ、特区領域に飛びつくことは極論からいえば“ホームスクーリング運動の自殺行為”だと明確に認識していなければなりません。