Tokyo 7月15日(土) 
     
 ご自分の死 を預言された主にたいして、ペテロは「たとい全部の者がつまずいても、私は決してつまずきません。}と応えました。
 自信過剰だったともとれますが、信仰についての考え方に問題があったとみえます。他の弟子たちにたいして、自分は強く、決して脱落しないという言葉に働いている原理は、“勝ち抜いて優れたものがとりあげられる”という考え方でした。ルカ書にはサタンが“麦のようにふるいにかけるのを許された”とありますが、サタンがみていたペテロの信仰も、同じ原理に基づいていました。優れたものが残され、欠陥のあるものは落ちこぼれ捨てられるのだと。
 何かの努力をしなければ、振り落とされるのではないかという考え方は、原理として聖書的信仰から離反しています。人目には熱心な信仰のように見えるところから、熱心な信仰が何かの行いに結びつくことで、受け入れられやすくなる。もしくは“何かのおこないがなければ、神によって受け入れられる信仰とみなされない”という考え方は、信仰の浅い信徒ばかりでなく、信仰歴を重ねた信徒にもみられるかもしれません。
 ここでいう「おこない」には、献金や奉仕、礼拝出席や、社会的ステータスによる信用という概念も含まれるでしょう。
 キリストが当時のユダヤ社会にもたらした決定的な違いの一つは、信仰をどのような「行い」からも「自分に属するすべての良いこと」からも切り離したことにあります。“切り離した”というと「行いの価値」を弱めたかのようにみえますが、行いや生活の質を絶えず高め続けて、完成を目ざさねばならないということは信仰が生み出す実にかかわることであり、主が人を召され信仰を与えるときの原理とは別です。救われるか救われないかは百パーセント恵みの原理に基づくのであり、献金や奉仕に伴う祝福をあじわったものは、恐怖心からではなく、ギブアンドテークの皮算用からでもなく、ただ感謝の心だけを伴って主に自らを捧げようとするでしょう。
 人が救われるのは、何かの交換条件を前提としたものではなく、全く完全に恵みによります。それは様々な試練の後、信仰が消されずに残ったばかりでなく、強くされたときも同じなのであり、“全くの恵みによって救われた”という基礎・・・それこそが盤石の岩(ペテロ)なのですが、ペテロが知らされることになったのは、信仰には競争原理や自分を人と比較して強いものとみなす自己意識は全く役に立たないという大原則と、それに加えて、「キリストによるとりなし」でした。
 キリスト者の信仰が仮に安定しているのだとしたら、「自然現象を信頼する」ようなものと同一であると考えてはならないのです。
 日々主は私たちの弱さを憐れみ、徹底的な悔い改めに導かれるように、サタンの計略に飲み込まれて滅びないように熱い心で日夜“絶え間なく祈っておられる”というのが事実です。
 キリストは天において、信徒のひとりひとりに心を配り、最善がなされるように祈りとりなしておられる・・・主は人のようでないので疲れることもなく休むこともなく、勤勉に祈っておられるのでした。「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく眠ることもない。」(詩篇121:4)という事実について日々感謝の心をもとうではありませんか。
 救いの囲いに入れられた私たちは羊であり、キリストは羊飼いでるたとえられます。救われた人々の群れがたとえどれほどの数になろうと関係なく、一人一人のために名をあげて祈り、とりなしておられるのです。