Tokyo 7月10日(月) 
     
  サタン(悪魔)について。聖書から何かを学ぼうとすると、聖書の指針をふまえていなければ、人の空想をいくらでも呼び込むことになります。聖書に書かれていることや聖書のコンテキストを超えてはならないのだとしたら、“サタン学”みたいなものはあってもたとえばベルコフの膨大な組織神学書のなかでも扱われているのは数ページのみであり、聖書の指針全体のなかできわめて限定された脇役としての役割を果たすに過ぎません。
 キリスト教信仰とは別に“悪を崇拝する”という俗信は古来からあったとみられ、悪ければ悪いほどそれを見方につけると悪は自分を守ってくれると勘違いするという意味、人から嫌われる、人を傷つける、人を殺すという悪魔の性質を(極論でいうと)「あえて崇拝する」ところまで行くのでしょう。ただしサタンは人を幸福にすると見せかけ、不幸と滅亡に誘うだけです。人がサタンの狡猾さに憬れているとしたらサタンと同じ滅びの末路が待っていることになります。ヨブ記に「ヨブの信仰を試す」ことを神に提案する存在として登場します。聖書のリアリティを信じて受け入れる人は、悪魔が見えない存在として実在することも受け入れるのですが、悪魔(サタン)についていくつか知らされていることがあります。
(1)概念を擬人化するなど人の空想の産物ではなく、サタンは実在している。  
(2)人と同じように神に造られた存在であること。
(3)見えない存在であるが、ときに「天使の姿に偽装する」こともある。
(4)世界観として神と悪魔の相克がみられるのではない。神と対抗しうる“絶対悪”でもない。
(5)人を生かすことではなく、常に「人を殺すこと」しか考えていない。
(6)常に神に許可された行動しか許されていない。
(7)サタンには滅亡が定められている。
 ペテロは主イエスが自分の受難を弟子たちに告知した場面で「そのようなことは絶対にあってはなりません」と諫めたとき、ペテロにたいして主は「引き下がれサタン」と言われましたが、人が一時的にサタンの具とされたり、「サタンの後に従う」ことにより、進んでサタンを崇拝し滅びの道を選択してしまうこともあります。人がサタンにあこがれるなどということがもしあるとしたら、すでにはじめからサタンの支配下におかれています。問題は「無意識に」「それとはわからずに」サタンの罠に陥るかもしれないということで、かくしてペテロのためにもキリストのとりなしが必要だったのであり、「キリストにつくものはサタンなど怖れるに足らず」と告白することが許されるのでした。