Tokyo 6月27日(火) 
     
 キリスト教会が私物化されるという問題は、歴史を通じてありえるのだと思います。有力な優れた宣教師もしくは働き人なら、ただキリストの名だけが人々に記憶されるのに満足して、自分がどこでどう生きたかなどの形跡すらあってもなくても相対的に価値を見いだせなくなるのだと思います。歴史に名が刻まれてるような有名な牧師や説教者に問題があるという意味ではなく、主の栄光があらわされることのみに心をつかう働き人を求めておられるのだとしたら、自分以外の他のものに栄光が帰されるような有様をこころよく思われないでしょう。
 パウロなども、すでに名が知られていた有名人。しかし、どれほど人から褒められても自分を“あらゆるものの滓”(前コリント書4:13)と呼んでいるのでした。人から褒められることも主の名が高められること、そして人からけなされることも、主の名のためでした。蛇足でまた別のテーマになるのですが、「迫害されること」を自分の正当性を保障してくれる証のように勘違いしているグループもあります。すべての人に違和感をばらまいているのに、それを正当化のための具にするという、わたしはカルト集団の特徴を思い浮かべているのですが、安倍さんが属している日本会議なるもののカルト性も疑わなければならないほど、安倍さんは完全に自己批判できなくなっている状態であり、精神的病というレベルに陥っていると推測されます。
 イスカリオテのユダさえ、主の名において悪霊を追い出すことができたわけで、たくさんの人をキリストに結びつけた功績を主の前に訴え出てもよかったでしょう。すべての力が主からのギフトであることを忘れていたなら、そのように言えたかもしれません。ユダの隠れた本性は常にこの世のことしか頭の中になかったのでした。敬虔さすら自分の経済的成功を実現するための手段としかみなすことができないとしたら、すでに魂が腐っているとしかみることができません。
 人が罪に陥りやすいというところから、改革主義は長老制度を生み出してきたのであり、「教会の私物化」がかろうじてブロックされるとみえるのですが、残念ながら、影響力のある教師のもとに人も集まり、そして教会形成がなされることにより、人を人として尊敬するという以上の人徳崇拝がおこなわれる場面も少なくなかったのです。