Tokyo 6月24日(土) 
     
   日本民族を愛すること

 内村鑑三は、「私は。二つのJに仕える。ひとつはJESUSであり、もうひとつはJAPAN」と言いましたが(多摩墓地の墓碑にも刻まれています)、これを内村神学な内包している矛盾を象徴しているとみることもできます。聖書の原理からすると、キリストの名に他の何ものも同列においてはならないのであり、キリストがすべて。日本人であることは二次的かもしくは従属的な意味であるべきだとされます。
 一方で、パウロは「私は自分の国民のためであれば、呪われた存在とされてもよい」とさえいいました。「わたしたちの国籍は天にある」と語っていたはずですが、ロマ人への手紙を解釈する上で、パウロの同国人ユダヤ民族への熱烈さの“程度”が推量されるのでした。
 日本人としてキリスト信徒になるということは、日本人らしさや日本の民族性を捨てるのではなく、むしろその反対で内村鑑三のように民族主義者と同列とみなされるほど、自国民への尊敬と同胞への愛を強く引き出されるのだと思います。それはたとえ国が違っても同じで、キリスト信仰によって引き出されそして内面に形成されるのは、ほんとうの意味の自国愛なのだと考えます。
 神学の上で徹底的にアメリカナイズされながら、内村の“アメリカ嫌い”は相当なものだったと伺われます。愛と憎しみが切り離しがたく混在していたというより、キリスト信仰によって引き出された自国愛についていえば、内村に比べてより強烈な人が少なかったのではないかと思われるほどの民族主義的思想が育まれていたのだとみえます。
 これと反対に、たとえば安倍首相の場合、日本風の言い方をしていてもほんとうは日本国や日本民族を愛していないどころか憎んでいるのではないかという疑問につきあたります。安倍さんや小池都知事が所属する「日本会議」なる集団も、ほんとうは日本民族を抹殺したいグループであるに違いありません。前石原都知事も、実はものすごく熱烈にアメリカへの従属を意識しているのではないか。カジノなんかひらいても日本民族のために何一ついいことがないのですから。いえ、本当は日本人であることに真から嫌気がさしていて、米国流をスタンダードとしたいのでしょう。
 日本民族の平和と安全、それに幸福を願うという意味で、はっきりと安倍さんとの違いを明確にしていくことから、「民族を愛するとは何か」が浮かび上がるとしたら、皮肉なことですが、「I am not ABE」は、日本国民をほんとうに愛する人たちのスローガンになりえます。
 議員報酬を20パーセントに引き下げたとか、公明党が“我々がやった”とかまた自慢しているようですね。20%がたいした数字でもないのではないかという議論とは別に、やることなすことが「党利」。あのグループには日本国民全体のことなど何一つ眼中にないとみえます。子宮頸部ワクチンなどを推奨したとか。(この問題れがどれだけ大きな社会問題となっているか報道しないのも新聞社の責任です。)「女性専用列車」なども公明党が推奨した路線なのでしょう。これが良いことか悪いことかは別の議論としても、本当に日本民族のことを考えていないために、一事が万事、自分たちが功績をあげたと思う事象を自画自賛するばかり。やることなすことが、あわよくば人からほめてもらうための恥ずかし幼稚なパフォーマンスばかりではないですか。池田さんが勲章を並べて人にほめてもらいたい人だったので、先生がそうだからといえば妙に納得できます。もっとも創価学会ばかりでなく、カルト集団とその教義は生成や形態が何であれ、思想原理として人から思考回路を分断するための洗脳がカルトの真骨頂なのであり、米国のなかのモルモン教が米国内でそうみなされているように、日本でももともと米国びいきの売国奴たちに利用されることだけで存在理由を認められているに過ぎないのです。わたしは共産主義者ではありませんが、共産党の議員さんの語るに耳を傾けると(いえ言葉だけだとは思いたくないですが)日本民族を愛する真摯さが伝わってきます。「共産」だけでは私を含めて日本民族を心から愛する人々を引きつけられないにもかかわらず。