Tokyo 6月19日(月) 
     
¶ もし牧師 や宣教師などの教職者が自分の所有物を増やしたとしても、聖書的原則からすると私有財産は守られるべきです。どれだけ大きな財産を持っていても自由であり、初代教会にみられた“共有”を理由に私的財産を取り上げられることはないのです。誰でも、たとえば土地を所有しているなら、その土地からどれだけ利益を生み出したとしても「寄生地主」などと揶揄されるべき必要はないのです。「持ち家」や「自家用車」を所有したとしても問題ではありません。けれども、世の人が「持ち家」や「自家用車」を成功のステータスシンボルとみなすのが常。神のみことばに仕える立場に召されたとき、生き方として世の価値観と決別していなければならないのであり、パウロに従えば「豊かさのなかにも貧しさのなかにもいる秘訣を心得ている」とされるでしょう。たとえば一人で開拓し、やがて大きな会堂をつくるように導かれたとしても、そのような結果を生み出したのは自分ではなく主である神のみ業なのでした。宣教の結果恵みによって生み出された教会の群れが与えられ、やがて自家や自家用車を取得するようになりそれが成功者の証であると意識しはじめるとき、すでに信仰の堕落がはじまったとみなされるべきです。たとえ信仰の教義の上で正統的信仰を表明していたとしても。
 教職者が貧しいのが当然という考え方は間違っています。所有物が増えることで生まれると想定されるいくつかの罪=所有欲、自己中心、財産をめぐる諍いなどリストがありますが、原則として高給取りであったとしても問題はないと考えます。けれどもそれに心を奪われるとき聖書によれば「塩気を失う」ことになります。説教原稿を書いてそれを発表することに報酬が伴うだけ。
 
ひとつの考え 方として、「教職者として召された上は、自家をもったり財産をもたない」と決めてそれを実践している英国の宣教師がおられ、「フルタイムで主の働きに召される」ということはそのような実践も含まれていると考えます。
 主にフルタイムで教職として召された器は、地上に「安泰(あんたい)の場所」を求めてはならないのではないでしょうか。所有物が増えることも一つの祝福。けれども、主の祝福は地上の事柄に縛られいないことを確かに認識していなければ、人は罪深いので、なにがしか他人と比較して、自分に人より優れたものがあるとか、他人を見下す態度や慢心が生まれるのだと思います。そうなると、聖霊に支配された説教が枯渇するようになります。牧師の自慢話を聞きに集ったわけではないのにと、魂が枯れる思いに心が窶れるのです。

¶ 「内閣支持率が下がった」。36パーセントなどというのも眉唾でしょうけれど、“支持率が下がった”とみせて、“反省している”というポーズをとった後、世論の批判を受けて反省したということで、やがて半数を超える日本人が安倍さんを支持などというシナリオを描いているのでしょう。実態は1パーセントもないのです。マスコミが軌を逸しているのです。軌道修正したらいいというレベルではなく、もともと、権力批判の媒体ではなく、読売新聞を筆頭に、政府公報をかってでているのがとりわけ大手新聞。テレビはさらに完全に許認可権が国に牛耳られているため、世論誘導のための使い走りを演じているに過ぎません。 一部を除いて新聞から事実を読み取るのは不可能です。