Tokyo 6月3日(土) 
     
 
 カルビニズムによせて

  カルビン「キリスト教綱要」によって、荒波にもまれた船にのった人が、灯台の光によって港まで導かれたようにカルビンの綱要に出会い、そして、敬虔主義で信仰を養われ、その反動のように社会福音を標榜した現代神学に翻弄された青年時代に、あらためて聖書を読み始める機会を得ました。カルビンの恩恵神学を継承したリフォームドからこれまで私が学び得たことは、積極的にいえばキリストとの出会いにより本当の意味で「信仰の自由」を得たのであり、否定的な言い回しをすれば、敬虔主義から生み出される世俗二元論や聖書的リベラリズムが生み出す理性主義的な思いこみや決めつけを回避するための訓練を得たのでした。聖書を自分の思いこみで解釈するのではなく、聖霊の助けにより、聖書に内面を取り扱っていただくように変えられたということでもあります。
 蛇足ですが礼拝準備のために、かなり前から「説教題」をつけさせられるのですが、これはすごく酷なはなし。それは、最初、自分が何を言いたいかテーマを決めて聖書を読んでも、聖書を読み、祈りつつ瞑想しているにつれて、自分の認識が刷新され、聖書の示している別のテーマが思い浮かび示されることが多いのです。そのため説教の冒頭で、「最初にお知らせした説教題とは別のテーマを語るように導かれました」と告白することが多いのです。 ところで、
 「カルビンは恵みを強調するために、信仰に行いが伴わなくてもいいと教えている」
 「福音宣教とはカルビニズムへの改心である」
 「カルビン主義以外はすべて異端である」とか。
  ほかにもいろいろカルビン主義への理解をねじ曲げて間違ったイメージを決めつけさせるような言い方がなされてきました。
  いずれも真面目な議論として取り扱う代物ではありませんが、いずれも、本当にカルビンのサイドに立つ信徒なら、絶対に口にしない言葉でしょう。ただ、カルビン主義の教会で生まれ育ったわけではなく、青年時代にリフォームド信仰に導かれたものとしては、ひとつは飲酒喫煙へ無節制な(改革されていない)態度、いわゆる福音主義者への蔑視、自分だけが正しいという傲慢さ、そして理性主義哲学の影響がみられたのは否定できません。人の弱さとして、自分は間違っていない、自分は正しいと確信していればいるほど、収税人を軽蔑した祈りをしたパリサイ人の心が入り込むのです。
 生涯カルビンの「カ」の字も知らなくても、キリストの救済が適応されます。カルビンなしでも、聖霊は聖書によって人を回心させ、人を養うことができるでしょう。
 ある人はカルビン主義者に地獄行きを宣言したいかもしれませんが、「カルビン主義者だから救われるのではない」ということを最も明確に示しているのがカルビン主義だともいえます。キリストの名以外に人が救われるべき名は地上の誰にも与えられていないからです。異端問題のそれはそれとして現代の教会はカルト化を警戒すべきでしょう。