Tokyo 6月1日(木) 
     
 
5月21日 八王子キリスト告白教会 日曜礼拝 説教

サムエル下 6章12−23節


ミカルには何が見えて何が見えなかったか
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  主にある皆様と共に御ことばの恵みにふれる機会を与えられ主に感謝いたします。
 聖書は、ダビデが神の箱と神がともにおられることを、心から喜び、楽器と音楽を伴い、全身全霊で喜びを表したことを伝えています。ダビデが、私たちすべてを神に捧げることを意味しているのだとしたら、ダビデの音楽と踊りを伴った礼拝は、パウロがローマ人への手紙のなかで「心の一新によって自分を変えなさい。それこそが霊的礼拝です。」と語っているのと軌を一にします。

 それにしてもダビデの姿にたいしてとったミカルの態度は、ミカルにたいして否定的な印象を強く与えます。
 契約の箱が取り戻されたことに狂喜乱舞するダビデの姿について、蔑んだとみられる箇所でしかミカルの人物像を推し量ることができず、ネガティブな印象が強いとされてきたのです。

 ダビデは、ペリシテ人に奪われた「契約の箱」を奪い返すことに成功し、主が神の箱とともにおられると確信して、ダビデばかりでなくイスラエルのすべての人にとって、喜びの日でしたが、ダビデは全身全霊をもって喜びをあらわし、歌いそして踊ったのでした。
 「主の前で,力の限り喜び踊った」とあるのですが、これを見ていたミカルは、その姿があまりに常軌を逸していたため、蔑みの心をもち、それをダビデに伝えたのでした。
 喜びがあったとしても、限度があり、節度というものがあるいえ、文化の違いはあるとしても、醜態とみえるほどの喜びかたはいかがなものかと、ミカルの言葉に「わたしだってその場にいたらそう思う」とか、賛成したくなるかもしれません。いえ愛しているからこそ、愛が強かったので心の中だけ思うだけでなくあえて面と向かって言葉で伝えたともいえます。
 
 けれども、主はうわべではなく心をみるかたです。ダビデの場合も、主がごらんになっていたのは乱舞し狂喜する姿というより、主を全身全霊をもって礼拝する心だったでしょう。
 みためや表向きのだけで人を判断したがるのは世の人の常です。しかしそこにミカルの心がありました。

 「イスラエルの王は、きょう、ほんとうに威厳がございましたね。ごろつきが恥ずかしげもなく裸になるように、きょう、あなたは自分の家来のはしための目の前に裸におなりになって。」
 ミカルのダビデへの感想は「窓から見下ろす」という言葉に象徴されます。王妃として、下々の者たちに混じって狂喜乱舞する姿に心底失望したのでしょう。
 上から見下ろすというだけでなく、ミカルにはダビデや、ダビデのまわりでにぎやかな音楽と笑いと歌が理解できなかったのでしょう。

 この会話のあと、ミカルについて、「サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった」と書かれていることをミカルにたいしてが主裁きを示されたとかいうコメントが多くみられていたため、ミカルをなかなか理解するところまでいきませんでした。一方で、ダビデのミカルへの態度も、ミカルが自分を理解しようとしなかったので、見切りをつけて生涯相手にしなかったというふうに考えていました。
 ダビデのミカルへの返事は、このようでした。
 「あなたの父よりも、その全家よりも、むしろ私を選んで主の民イスラエルの君主に任じられた主の前なのだ。私はその主の前で喜び踊るのだ。私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても。あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」
 このことばをミカルへの対抗から出たとみると、ミカルへのダビデの仕打ちが続くとみえるのですが、全体を何度か繰り返して読むとき、ひとつは、サウルとサウルの子孫たちへの態度は、復讐するものへの態度ではなく、むしろ、同じ家のものとして包み込む心が基本にあったのではないかと思われます。ミカルにたいしても祝福を与えようと願っていたのです。祝福を拒否したことへの仕返しをしたというのではなく、ミカルが変わらなかったということを暗示しているのではないでしょうか。
 長い苦難の末に勝ち取った勝利の喜びというより、ダビデの喜びは、神の箱を通じて、神がご自分の存在を示してくださったところにあります。ミカルにも「主」という言葉を3度もつかっています。主が自分の地位を確立してくださった喜びというより、主がご威光をあらわされたことに喜びを感じていたのです。
 ミカルがダビデを蔑むことしかできなかったのは、ダビデとともにおられる主のことが理解できなかったし、主がおられることを喜ぶことがわからなかったからに他なりません。
 それにしてもダビデの22節に「私はその主の前で喜び踊るのだ。22 私はこれより、もっと卑しめられよう。あなたの目に卑しく見えても。あなたの言うそのはしためたちに、敬われたいのだ。」はどういう意味なのでしょうか。
 私が軽蔑されるとしたら、それは主の御前においてであり、主の前では、自分も貧しい存在に過ぎない。そうだとしたら、主が褒め称えられるためにはもっと卑しくされるべきだろうと、主の前に謙遜であることこそ、喜びの源であると。
 ダビデはミカルを退けたのではなく、家族の一員として受け入れて、願わくばミカルも主にある喜びにあずかり、窓から見下ろすだけではなく共に群れに入ってもらいたいと願って、招いているのではないでしょうか。
 ミカルが子どもを生まなかったのは、ダビデがミカルを妻として冷たく突き放したからではなく、むしろミカルの心に生まれたダビデへの軽蔑の心を残念ながら生涯にわたって消すことができず、ダビデに近づいて語りかけることすら嫌ったからではないでしょうか。
 
 ダビデは詩篇33篇で、
「正しい者たち.主にあって,喜び歌え.賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって,ほめ歌を歌え。 新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。」
と語りました。
 ダビデを支配していたのは、主への感謝と喜びだけでした。
 ダビデの心は、地上の支配者として地位を確立した喜びではなく、むしろ、心は地上のことにではなく、天にあったのでしょう。
 ヘブル人への手紙の記者は賛美についてこのように語ります。(13章)

14    私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。 15    ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

 一方、ミカルに目を移すと、ダビデと神の箱の帰還を見るまでのあいだ、平坦な生涯ではなかったのです。
 最初、ミカルはサウルにダビデへの褒美として嫁がせられたのです。サウルがダビデに敵対心を増幅させ、ダビデが逃げなければならなかったとき、逃亡するのを助けたのであり、ダビデがきらいではなかったのですが、サウルにより、パルティに嫁がせられるようになります。しかしそればかりでなく、サウルの将軍だったアブネルを配下にするとき、今度はダビデによって、パルティから引き離され、もとに戻させられるのでした。ミカルにすれば、自分の生涯が常に他人によって翻弄されていたのです。
 ミカルの心に、どのような状況におかれても、それが主によってなされた業であると信じていたとしたら、「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」(詩篇34:1)というダビデの心を理解できていれば、ミカルは蔑む場所には立たなかったでしょう。
どのようなところにおかれても、主のみ心をしたい求めることができたなら、ダビデとともに主を喜び、自分が主のまえに低くされることを追い求めるようになったことでしょう。

 ダビデのように、全身全霊で賛美をするという経験は、わたしたちの生涯に何度も訪れないかもしれません。しかし、聖霊によって与えられる喜びは、天国の前味として与えられうるのです。
 たとえ、主の福音と主の業にたいして蔑みの心しかもてない人々をさえ、主は忍耐をもって招かれ、悔い改と救いの祝福に招き入れたいと願っておられるのです。
 天国の喜びがわかった人は、どれほどの高い地位、どれほどの高価な品を手に入れたとしても、それに心奪われるとか、地上の宝に執着できなくなるのです。 
 アウグスチヌスは告白録のなかで、信徒の歌う賛美の声によって求道をはじめたと記しています。賛美が主のものとなるとき、私たちに喜びを返され、そして主はそれをご自分のためにも用いられるでしょう。