Tokyo 4月23日(日) 
    
 
 アメリカナイズされたキリスト教

 そのような言い方がされているわけではなく、仮にそのような言い方をしてみたというに過ぎません。キリスト教は米国由来ではなく、ヨーロッパを本地としているからです。欧州から大陸にわたるとき、賛否はいろいろあろかと思いますが、良きにつけ悪しきにつけ、プロテスタントは、いくつかの米国的特色を示すようになりました。
 ひとつは分岐。「分派」という言い方もできますが、聖書に出てくる分派とやや意味が違い、分岐や統合は米国プロテスタントの特色ともいえます。(カトリックサイドからのプロテスタントへの批判のひとつは、教会の“公同性=カトリシティ”が脅かされているというものであり、プロテスタント側としても考慮しなければならない課題であると考えます。なおカトリックとプロテスタントの統合はアジョルナメント運動にもかかわらずいまだ実現していませんが、日本では共同訳聖書などのプロジェクトは成功し、敵対関係の溝が埋められ、相互理解が進んでいるとみることもできます。)教派分岐に至る理由は、聖書論、予定論、終末論の差異など様々。
 今日、日本で「異端」と呼ばれるモルモン教やエホバの証人はいずれも米国由来であり、米国には「カルトの王国」と呼ばれるほど多数のプロテスタント系異端が存在します。欧州で迫害を逃れたいわゆる再洗礼派の人々が迫害の逃れるためにすでにダッチリフォームドが主流となっていたオランダの地に逃れ、やがて米国に新天新地を見いだしたことも背景にあります。飲酒が公式的に分離の直接の原因とされたことはありませんが、世俗との分離を禁酒禁煙の生活をもって示すべきというメソジスト会派の影響は非常に大きく、いわゆるイバンジェリカルとリフォームドの分岐の遠因になっていると思われます。
 禁酒および断酒。もともとワインなどは修道院でつくられてきたのであり、欧州各地で製造販売されてきました。聖餐式でワインが使われてきたによります。ルターが“禁酒”でなかったのはいうまでもありません。米国社会で広く脱アルコール生活をキリスト信仰の実とする傾向がみられ、禁酒禁煙運動は米国由来の保守的プロテスタントの特色とみなされるようになりました。飲酒を伴わなくても、聖霊に満たされることで「社交辞令なしの腹を割った」歓談がなされるというのがひとつの文化傾向として推進されるのは好ましいとは思われますが、一方で教会がパリサイ化されている場合、その程度の対応で済まなくなるのが問題とされるべきでしょう。
 アメリカナイズされた宣教のスタイル。世界宣教において、宣教地に植民地的文化移植がみられる傾向があります。“マクドナルド化”という言い方をする社会学者もあり、福音宣教の結果、福音はアメリカ文化とともに受容されるようにすすめられ、アメリカでの神学思潮がそのまま日本宣教で適応されることもあります。キリスト宣教が米国の植民地化の道具とされるという批判もみられるようになりました。被宣教地の教会が経済的にも信仰面でも完全にアメリカナイズされてしまうところから、日本人による自主独立が阻害されているという批判もみられます。
  コンテンポラリー音楽が礼拝音楽として採用され電気ギターやドラムが使われます。わたしとしては、礼拝音楽が多様性を帯びることを喜ばしいと感じますが、オルガンや伝統的賛美歌が相対的に扱われることについては残念な傾向であると感じます。
  もともと自民党は、事実上、はじめから米国傀儡政権を実現するための組織であるとみられるべきですが、戦後の米国由来のプロテスタントが政治に直接発言の場をもつことはなかったとしても、政治にたいしては強く保守的傾向を示し“親米傾向”が強くなりますます。それゆえにたとえ聖書的な問題が惹起されていたとしても、講壇から現行政権への批判を含んだ説教がなされることは希です。いえ、ただしそのような傾向があるというだけで、米国由来のキリスト者がすべて自民党支持者であるという意味ではありません。