Tokyo 4月22日(土) 
    
 
 煙草の有害性については論を待たないとしても、酒が体にいいか悪いかについては、アルコール依存症の事例等を調べると、さすがに体にいいと決めつけるだけでは済まなくて、問題は泥酔なのであり、一般的な意味で「お酒は適度に」というべきなのでしょう。なお、仏教でも原則からいうと酒は禁止。アルコール飲料が日常的なのはキリスト教圏もしくはキリスト教にたいして寛容な社会の特徴であり、イスラム圏は宗教上の理由から酒の製造はもちろん飲酒そのものが禁止事項に属します。モルモン教では酒ばかりでなく、コーヒーなど熱い飲み物もすべて禁止事項に入ります。
 米国由来のプロテスタントには断酒とキリスト信仰を結びつける傾向が強くみられ、やはり内村鑑三も「クリスチャンは酒を飲まない」という人のひとりでした。奴隷制度を容認したキリスト者がいたのも一例で、「アメリカナイズされたキリスト教が存在する」という考え方が可能と思います。
 アルコール依存症は、多食による健康被害と同じように摂食障害と分類され、ニコチン中毒と同じように治療の対象とされるべきなのですが、大づかみにみて、断酒もしくは禁酒を信仰の結実とみる傾向は、米国由来のプロテスタントの特色とみなすことができます。映画「フライト」でも、副操縦士が事故後に病院でキリスト者として断酒を勧めるシーンンがみられましたが、ただし米国では何でも、どのコンテキストでも酒が悪いものだと決めつけているというのは誤解です。深酒や軌を逸したアルコール摂取が社会問題とまでなっている米国社会固有の問題や、いわゆる断酒法などが背景にあると分析されるべきでしょう。米国でもカトリックやルター派、改革主義教会には信仰と酒とを無理に結びつける傾向はみられず、聖餐式でも普通のワインが使われます。(アレルギー対策としてのグルテン・フリー・ブレッドやアルコールを飲めない人々のための葡萄ジュースかという選択の配慮がみられたとしても、アルコール類は食生活の一部として扱われ、教会の立場からは公式的にとくに拘りがないという意味です。) 
 旧約聖書では、ノアが泥酔して、子どもたちのまえに醜態を晒した例に代表されるように、聖書には酒がもたらした「負の側面」が正直に記録されています。父ロトを泥酔させて近親相姦に誘ったロトの娘たち。ソロモンも箴言のなかで、泥酔がもたらす錯乱に警告を発しています。
 一方で、新約聖書では、イエスはカナの婚礼で水瓶に満たされた水をすべて上等なワインに変えるという奇跡をみせ、弟子たちとの会食では水ばかりではなくワインが用いられていたためにパリサイ人らから「くいしんぼうの大酒飲み」というバッシングを受けていたのでした。パウロも弟子のテモテに「体のために水ばかりでなく少量のワインを用いなさい」と勧めています。酒がもたらす実害に触れている具体的事例は特にみられませんが、パウロでさえ、聖霊の実を語るガラテヤ書で、「肉の業」のリストのなかに、泥酔や酒宴をあげています。
 キリスト者の霊的交わりは、とくに教会であれば、それが酒宴や世の宴会と峻別されていなければならないといえます。教会のなかに喫煙所があるとか、キリスト者交わり会に賛美歌とともに普通にアルコール類があるとしたら配慮に欠けた「無牧」がみられると思います。入信して間もない人、子どもたちや未成年、それにアルコールを飲めない人を教会の交わりから排除するのと同じであり、配慮を欠いているとみなされるべきです。
 酒がもたらす効果に期待されているのは健康面に良いとか疲れをいやすいうばかりでなく、“憂さを晴らす・忘れる”という面があるのは否めないのですが、心の問題のために一時的な酒に頼らず、根本の解決はキリスト信仰にあるとされるべきです。キリスト信仰によって与えられる恩恵のひとつとして、アルコール依存症が改善するというのは納得できます。しかし、「酒を飲みたければ別のグループにいけ」だとか、禁酒や断酒を教会の正会員条件とするまでいくと、聖書的立場から逸脱しているという非難を免れ得ません。
 初代教会の一部に「手をつけるな、味わうな、飲むな」という規則がみられたようです。(コロサイ人への手紙)互いを人のつくった規則で縛りあい、信仰と飲食の問題と結びつけるような傾向がみられたのであり、パウロの視点からすると、交わりのなかに「クリスチャンは酒をのまない人だ」という見えない規則がだけが浮き上がるのだとしたら、断酒を信仰の熱心さと混同し、断酒こそ聖書的立場と豪語するようになっているのであり、初代教会にさえ、すでに“キリスト者のパリサイ化がみられた”ということになるでしょう。