Tokyo 4月20日(木) 
    
 

先行する恵み
  
 「先行する恵み」とは、キリストの業について、人の意志決定に先んじて神の側ですでに適応がなされているというキリスト教の教義に基づいた理解のことを示します。組織神学では聖定論とも。人はキリストに心をむけて自分の意志でキリストについていると考えますが、実は、キリストによって先に召され、招きに応じる意志と心と行動さえ、“恵みによって与えられた結果である”という恩恵論に基づきます。(ヨハネ18:37 エフェソ2:8)

 パスカルの原理など物理学の原理の発見やパンセなど神学書で知られるパスカルは、カトリック界ではプロテスタントとともに“異端”とみなされたヤンセン主義の影響を受けていました。(ちなみに、パスカルの名は、一般で周知されている以外にも、ホームエジュケーションの歴史を辿るなかでも登場し、学校教育を受けていない歴代の著名人のリストに加えられます。)
 ヤンセンはカトリックに身をおきつつも、アウグスチヌスの影響のもとにあって、絶大な神の恩寵(めぐみ)と人の絶望的な無力さの現実を受け入れるに至ります。カトリックにいながら聖書的原理を示されるに至ったということができます。ヤンセンとほぼ同時代におこった宗教改革の時代に改革陣営の表象ともされたカルビンの影響下に発展したカルビニズムの恩恵論と同一線におかれていたともみることもできます。
 神の恩恵がなければ回復できないほど人の罪は大きく、言い換えれば、聖書は、人が罪のゆえに神の恩恵の大きさを理解できない状態から引き出し、人はただ恩恵の絶大さに気づかされ、ただひたすら生涯をかけて恩恵に応えようとする自発的努力に推し進めようとするのみ。
 幼児洗礼についてあれこれ考えるとき、恩恵の大きさは、「先行する恵み」といわれ、人の意志決定によって「キリストの救い」が引き出されるのではなく、もともとキリストの恩恵は人の決定に先行して付与されているのだという考え方に思い至ります。
 幼児洗礼に対して反論がなされたのは言うまでもありませんが、その特徴の一つは、キリストの救済が成されるのは子どもの自由意志によるというものでした。アナバプチズムが生まれた当初は「教会の聖性」が基軸とされました。教会の聖性は、自覚的に信仰告白したものたちのみによって構成されるべきだと。しかしやがて「我おもうゆえに我あり」という、個人の意志決定を基軸とする近世の哲学思想のもとで、個人主義がキリスト教会にも影響を与えました。カトリックの全体主義にたいして、大切なのは個人の意志決定であり、意志と無関係のカトリックの幼児洗礼は無価値と断定して、“成人洗礼を受け直す=再洗礼派”つまりアナバプテストと呼ばれました。繰り返しますが、アナバプテスト派の一つの大きな特色は「教会の聖性」であり、それゆえに原理としては教会員に生まれた子どもたちは“群れの外=聖ではない場所”におかれているということになります。
 ルターやカルビンらは反カトリックであったとしてもカトリック教会に継承されていた幼児洗礼を否定しませんでした。いずれも聖書的恩恵論に基づきます。

  幼児洗礼は、幼児が自分で理解できるものでなかったとしても、すでに両親の信仰よって先行する恵みの原則によって教会の群れのなかに加えられているとみるのですが、両親の信仰以前に、神の意志としての聖定を受け入れるものです。幼児たちは、群れの外にいるのではなく、信仰告白をするまでは正式会員ではないとしても、「幼児会員」として群れの一員に加えられているのでした。ルターやカルビンはカトリック教会に対抗していたとしても、幼児洗礼が聖書的原理にかなうものだと理解していました。“カトリック=公同教会”という意味では、プロテスタントは反カトリックではなく、カトリックのルーツである「アウグスティヌスの恩恵主義」を回復する運動であったとみることができます。
 幼児洗礼を受け入れているキリスト教徒であるならば、子どもたちの養育について、キリストの勝利を受け入れるべきです。
 クリッカ弁護士は「学校は、ニュートラル製造装置」(「正しい選択としてのホームスクール」未邦訳)と言いましたが、「子どもがその信仰を受け入れるかどうかは本人の意志決定に任せるべきであり、親が決定するのではない」という言い方の“トリック=罠”に陥る親が非常に多いという意味でしょう。子どものは学校教育の下で、親から継承すべき信仰を“ニュートラル化”されてしまうのであり、結局のところ脱キリスト教の道を行くように促されます。そのときに公教育がつかう理論は「進化論」と「脱聖書的家庭論」であり、競争原理と「隠れたいじめの肯定」がその手口なのでした。
  幼児洗礼を受け入れる教会や家庭でなければ、ホームエジュケーションが可能でないというのは論外ですが、幼児洗礼とホームエジュケーションは密接にリンクしているという考え方はとても大切であると考えます。米国のホームスクール運動において、改革主義教会がホームエジュケーション運動の騎手になった歴史は特記しておく必要があります。次に時間ができたときにそのあたりを書きます。