Tokyo 4月11日(火) 
    

 復活はフィクションではない 

 復活節(イースター)の時期は、いまやキリスト者界隈以外にも広く知られるようになりました。
 それでも多くのキリスト者でない人たちにとっては、一度死んだ者が蘇る・・・しかも、全く新しい肉体をもって復活するという教義については、信じることができないばかりでなく、全くの作り話かファンタジーのようにしかみられないと思われます。
 生まれるのも“不思議”、死ぬのも“不思議”というは、ジブリ映画の挿入歌の歌詞。すごくまっとうな正直な内容だと思います。人はものすごく多くの不思議に囲まれているからであり、“科学”がなんでも解明できると錯覚し、フィクションが増幅して、映画で描かれているように人の知性が限りなく人のようなロボットも作り出せるような錯覚さえみられるようです。
  しかし真実は、人の死は人が見させられている一つの現象であり、人が見ていることが真実のすべてではないのだとしたら、人の死さえ、創造主が人に知らせられているところのほんの一部なのだといえるのです。
 “自然法則”がきわめて安定しているのは、“神さえ自然法則に従う”ではなく、時間、空気、生命体構造のホメオスタシスなど、自然現象と呼ばれる物理法則のどれ一つをもっても、そのひとつひとつが、宇宙の法則から微細な微生物の命まで人や生命体が地球で生息するために絶対必要の条件だからであり、神の人への愛が完全に働いているからなのだとわたしは考えます。
 人は髪の毛の一本さえ、自分の意志で白くも黒くもできないのです。いえ染めるならできるでしょう。しかし髪の毛の色を根本から変えることはできません。科学者が何でもわかったような言い方をしているとき、人の無知や無力さが理解できないだけです。おそらくまじめで優秀な医者であればあるほど、人の命が人の思い通りにならないことや、命そのものが“不思議”ということに気づくはずです。
 それでも神を受け入れることができないのは、神の創造についての圧倒的な証拠に満ちあふれているのに、あえて「こころが閉ざされている」のでしょう。そう考えると、もしあなたが神を受け入れることができるのであれば、それも復活と同じレベルの大きな奇跡の業の一つであり、神の許しがなければ心が開かれないのだともいえます。
  人が死から蘇ることはありえないのではなく、人の死は日常にみられるため、人の復活が日常的でない(理解できない)というだけに過ぎません。人の想像力では、ゾンビみたない気味悪い現象しか思い浮かばないのであり、神のはじめの創造の業が、美しさと最善に満ちていたように復活の体も、“非の打ち所のない完全さ”をもっていると確信しています。ある英国の科学者が死後の世界がないとか公言しているようですが、傲慢な心もここまでいくと現実離れしたフィクションとなります。復活がフィクションなのではなく、死後の世界について人の知恵では何一つわからないにもかかわらず、躊躇いもなく断定できてしまうのは傲慢さばかりではなく、死後の世界はないという断定こそが空想の産物でありフィクションだと思われます。
  フィクションといえば、東大などの有名学校への入学を果たす。それ自体はすごく良いことだと思います。ところがそれを「人生の勝利の鍵を握った」ような描き方をする予備校CMみられるのですが、偏差値の高い学校に入学できたことをどう評価するかとは別に、人生観としてものすごく歪んでいると思います。東大入学が人生の勝利者になったように描くのもひとつの特殊なバーチャルな価値観でありフィクションだなのだと考えます。真実は人の人生の幸福は有名大学に入るかどうかとは全く関係ありません。人生の質が、お金のあるなしとも無関係というのと同じです。