Tokyo 4月9日(日) 
    

  ダビデが主の御名をたたえて全身全霊で喜びをあらわして踊っている姿について、妻ミカルは「窓から見下ろして」軽蔑しました。
  このときのミカルの心は「窓から見下ろして」という言葉に凝縮されています。子どものように狂喜しているダビデと自分とは世界が違うのであり、自分は窓から見下ろすところにいて批評することしかできない。
  ミカルのような経験は誰にもあるわけではありませんが、ミカルのような心境に陥るのは、現代日本のキリスト者界隈にもみられるものです。キリスト者でない方が世にキリスト教とはななにかを知らせようという数冊の出版物がありますが、キリスト者でない人によるキリスト教評論と呼ばれる作品で的を射ているとみえる文章が希なのはどうしてかというと、あたりまえのようですが、著者が信仰をわかった上の当事者ではなく、「窓から見下す」ような立ち位置から、そして、最も根本には、(そう書いていないとしても)キリスト信仰へ蔑みの心が消しようもなく存在しているからです。おそらくフィールドワークなどと称して礼拝に出かけたこともあるに違いないのでしょうけれど、本のネタがないかと探すばかりで、心に渇きのない状態では魂に届かない どころか「馬の耳に念仏」以外の何ものでもなかったでしょう。「貧しい者は幸い」と言われていますが、心が貧しくないところに福音は届かないからです。

  まるで「窓から見下ろすように」現代キリスト教、とりわけ福音主義と呼ばれる米国由来のプロテスタントを評論するという立ち位置もいく つかみられます。おそらくすべて評論は(不正確さが混じっていたとしても)事実に基づくのでしょう。ときにあからさまな罪があり、悪い噂があり。あなたが、ウエブサイト閲覧という現代の窓からみて、 「キリストの名を語りながら、よくもこんな恥ずかし姿を世に晒しましたね。キリスト者としてわたしも恥ずかしくてしょうがありません。」というとき、ミカ ルの 心が再現されているのだと思います。蔑んでいる相手が、主にあって喜ぶダビデか、偽善者・罪人の姿かの違いはあったとしても。
  このようにいうのは、偽善を肯定したり、罪を礼賛する意味でないのは当然です。キリストの名が辱められる事象に心痛むのでもなく、「わたしは福音派教会に所属するキリスト者でないことを感謝します」と祈るのでは、ただの世俗の非キリスト者による評論と大差ありません。 

 礼典論にお いて、クラシカルな賛美歌を中心の礼拝になじんでいる人たちが、ドラムやエレキギターなどを取り入れたワーシップソングにたいしてもつ違和感に似ているのかもしれません。米国プロテスタント界隈でもさかんに議論されてきました。 

  「礼拝と は、そもそも正装をして襟を正し、敬虔な心を伴ってなされる主への捧げである。それを、何か気でもふれたように手をたたいたり、恥ずかしげもなく手をあげたり、まして踊ったりするとは軌を逸した行儀のわるい人たちである・・・」とか。
 礼拝音楽はバッハなどの古典音楽もすばらしいですが、「新しい歌をもって主をほめたたえよ」という聖書の教えに従うとき、コンテンポラリー音楽のすばらしいさにも心を開けたらと思います。