Tokyo 4月4日(火) 
    

 喜ぶものとともに喜び、泣く者とともに泣きなさい
  
 世の中殺伐としていて、誰が喜ぼうが悲しもうが自分は自分、人の喜怒哀楽などにかまっていられないという考え方が流布していますので、喜んでいる人の傍 らでそれを自分のことのように喜ぶとか、泣くものとともにいて泣くなどは今の日本では実現できるはずもないというのがおおかたのみかたになっているに違い ありません。
 生まれつき、他人への共感とか感受性が強い人がいるのかもしれません。わたしの経験では、泣いた経験のある人であればなるほど、泣いている人の心が理解できてともに泣くような気持ちにさせられるのだと思われます。
 「泣く子と地頭に勝てぬ」ということわざが示すように、とくに子どもが泣いている姿には黙って見過ごしにできないのが人情というものでしょう。
 それでも聖書の戒めが非常にハードルが高いと思われるのは前半の「喜ぶものとともに喜ぶ」ということが非常に難しいからです。それだけ人が罪な存在であり自分中心であるからなのでしょう。
 日本特有の文化としては“泣き”については、悲しみにうちひしがれて泣く人の傍らで泣くことが(誰でもそうだとはいえないとはいえ)たとえば歌舞伎などのテーマひとつとっても、「泣きの文化」として継承されているのではないかと思われます。
 喜んでいる人が何を喜んでいるかにもよるでしょう。価値のないものに驚喜しているとみえたとしたら、ともに喜ぶなどはおろか、むしろ軽蔑の心さえ浮かぶかもしれません。ねつ造されたに違いない安部さんの「支持率」などを答弁でも引用して妙に悦に入っているようなご本人の姿などをネットで拝見すると、「ともによろこぶ」ことができないどころかむしろ恥ずかしい。
 喜べない心は、自己中心とか、隣人の心に寄り添えない冷酷な心が影響しているでしょう。そのくせ、自分にとって喜ばしいことであれば、他人に喜んでもらいたいという思いは強いのであり、ともに喜んでくれない人を、かえって心の狭い人だなどと勝手に決めつけたがるものだからです。
 キリストの業によって生まれる信徒の心には、共感の心が恵みによってもたらされるのだと理解しています。罪深い生まれながらの人の心は冷淡だからであり、新しく生まれ変わることによって、共感の心が生まれるのでしょう。「同情」という言葉が日本語としてつかわれるとき、なぜか上から目線で、哀れみを垂れるような目線を含んだ言葉になりかねません。ある方が、同情というより共感を”といっておられましたが、キリストの地上の生涯を福音書から学ぶとき、この方の全生涯が他人への“共感”に満ちておられたといえます。
 地上では悲しみが多かったので、預言者イザヤは、キリストを“悲しみの人”と呼びました。けれども、この方はたくさんの悲しみと同様に、たくさんの喜びも同時に覚えておられたに違いないのです。
 人が悲しみを覚えてくれないとか、喜びをともにする人がいないとか嘆くまえに、キリストは常に「あなたのともに悲しみ、あなたとともに喜んでおられる」方なのでした。
 この方の模範に倣い、隣人愛をさらに豊かに育てていただけるようにと願います。