Tokyo 3月28日(火) 
    

¶ 説教について 
   「書斎のキリスト教」という言い方も、そのような形態も存在しません。
 けれども、教会が聖書講義所となり、福音があたかも書斎から生み出されるようにみなされはじめるとき、深刻な福音の劣化を招きます。礼拝堂が聖書講義所となり、熱心な信徒は、福音にたいして熱心というより、高名な牧師がどのような聖書の“切り口”を見せてくれるかを楽しみに礼拝所に集う。何につけ熱心であるのは悪くないと思われるかもしれません。
 そうなると、説教とはいわば「牧師の研究発表」であり、大学の講義と大差なくなります。そうなると献金は感動的説教への返礼と大差なくなります。けれども、説教によって魂を取り扱っていただくという態度がみごとに劣化してしまい、ついに自分を喜ばせてくれる説教だけに価値を感じてしまい、判断にかなわないものはただ耳もとを通過するだけになり、今の現状を肯定してくれるような話には耳を傾けるが、現況を変えてしまうような説教は「ご遠慮いただく」ということになりかねません。
 キリストのみ声にたいして、あたかも“主よ、もうしわけありませんが、ここから先は私のプライベートな部屋です。誰も入れたくありませんので、入室をご遠慮ください”と言うかのように。
 尊敬するただ一人の牧師の説教しか耳に入らなくなったとしたら、そこには根本的霊的な病が生まれているといわなければなりません。 説教する側からいうと、あえて耳障りのいいことだけを語るのではないとしても、喜んで耳を傾けてくれる聴衆のほうを心地よく感じてしまうのです。反対にあなたの説教に反発し、はげしく逆らう人とか、面と向かって抗議するような人がいたとしたらどうでしょう。
 「彼はわかっていない」「彼は堕落した」とか決めつけるだけはできるとしても、その人たちのために祈り、愛するとか受け入れられるようにどうしたらいいか悩むなどいうのはかなり面倒な仕事になるでしょう。けれども原典釈義と同じくらい、いえそれ以上にそれこそが説教者の仕事なのだと思います。もしかしたら、主はそのような人を通じて、あなたに警告を与え、訓練を与えておられるとはいえないでしょうか。

 組織神学の必要性
  徹底的な原語の釈義や、組織神学や歴史神学の裏付けは無用であり、いえ、説教とはもともとその場でアドリブのように語られるべきで、いっさいの準備は不用という意見があります。
 そう!ペテロは“準備”をしたのか。パウロはアレオパゴスでの説教のため“準備”をしたのか。たとえ説教が人を媒介しているとしても、説教は聖霊なる神の賜ものではないか。このような考え方に内在する根本問題はどこにあるのでしょう。 
 使徒の役割をもたない普通の信徒である説教者が、どれほど俗的思いこみや非キリスト教的先入観をもって生活しているか、自分がどれほど思いこみによる独断と偏見を生み出す“間違い製造器”であるのかを理解できていない。理解しようともしない。すべてこれは聖霊の業だといいはる。問題はそこにあります。いえ、それでも「聖霊の働きさえあれば準備など必要ない」と思われますか?
  説教が神からのたまものであると理解すればするほど、人が手にできる書物のかたちをとっているからこそ、人のどんな思いこみや勝手な解釈をも排除し、神が聖書を通じて人に伝えたいことだけを浮き彫りにして伝えたいのです。原語の釈義は、翻訳によって入り込む人の誤謬を回避できるかもしれません。そうかんがえると、弱さのなかにいる人は、組織神学の裏付けがなければ聖書を取り扱う説教は困難になるとさえ思います。一つの箇所にこだわることによる聖書解釈の問題は、聖書の全体像を把握していることによって回避できると思われます。
 弱さのなかにある人が用いられているとしたら、組織神学の学びは特に説教者の思考力に入り込む弱点から生まれる間違いを回避するのに必要です。説教したくてしかたがないとかいう人がおられるそうで、私には理解できません。
   説教をつくる作業はものすごくしんどい仕事だからです。ひとつの説教を備えるとき、それは、自分の思考力、判断力、潜在的知識すべてを“洗い直す”作業となります。原語の意味を学ぶことで、翻訳から生まれる先入観を洗い流すのです。徹底的に霊的内面的に取り扱われることがなければ、人は説教のための講壇には立てないのです。

¶ 新聞発表の「内閣支持率」が確実に嘘だということをかなりの国民が認識するようになってきました。ですから内閣支持率などという数字を根拠とした評論はすべて世論操作のためものだとされなければなりません。安部さんとその一味が操作した選挙結果。安部さんが金の力で買収した内閣支持率。ほとんどの日本人があきれ、かつ、それ以上に怒りを覚えていると存じます。