Tokyo 3月8日(水) 
   
すべての人々のための祈り
 
  「宗教はひたすら内面に特化した性格をもつのであり、政治的な事柄に意見をもったりそれ を公にすることを嫌う傾向がある」としたら、仮にそれがキリスト者であるとしたら、大いに的を外した“曲がった信仰”であるといわねばな りません。
 信仰心とは本質的に教会堂など建造物や集団など見える事柄と結びつくものではなく、心や魂など見えない事柄について指南していると考えるのは妥当だとし ても、政治的な事柄には「隣人愛」が最も強く要求されるのであり、もちろん政治に関心をもたない(持てない)人は隣人愛 が薄いなどと「決めつける」のは禁じ手。いえ、そうだとしても、キリスト者における隣人愛の真価が最も問われるべきは政治的分野においてであると考え ます。
 キリスト者が負うべき社会的責任とは、隣人愛をどのように実践するかという意味で、どのような生涯をすごすのかというテーマにもかかわる大切なテーマなのでした。
 わたしは、安倍政権がこのまま存続すると、これが続けば続くほど日本がだめになり、民族滅亡が加速されると確信させられるようになっているために、このところ安倍政権が一時でも早く終焉を迎えるように祈るようになりました。
 それは安倍さんはついに教育の分野にさえ臆面もなく口出しするようになり、子どもたちの魂と心を蝕むような悪事を公然とおこなうようになっているからで あり、当然、原発推進も、被曝容認も悪いのは悪いのですが、教育を悪化させることは安倍さんのおこなってきた罪のなかでも最も重い罪に属します。
 キリスト者も誰であれ、そのような危機感に目覚めなければなりません。それは世と迎合するという意味ではないのです。

   為政者のために祈ることについて、聖書は次のように述べます。

 まず第一に勧めます。願いと祈りと取り成しと感謝をすべての人々のためにささげなさい。 王たちやすべての高官のためにもささげなさ い。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。(第一テモテ2:1-2)
 
 キリスト者の祈りが、自分の安寧立命を含めた祈りであるのは間違いないのであり、「ご利益」つまり、何らかの利益を受けられるようにと いう祈りは受け入れられるべきですが、誰のために祈るのかという点において言えば、国民のため、国民の負託を受けて統治する立場の人々のための祈りであるようにということが祈りの訓練の生涯の目標であるということ。
 さらには、キリスト者の生涯が迫害や圧迫をはねつけるような信仰の強さをもつのをよしとしても、神が人に願うのは、キリスト者だけでは なく、すべての人が迫害や飢えや死の恐怖に晒されるのではなく、平穏さと落ち着いた生活を送ることを望んでおられるのだという点が重要です。
 神はキリスト者の幸福と平穏ばかりではなく、キリストにない人々のための平和と幸福を願っておられます。
 キリスト者は選ばれた特権階級であり、そこから非キリスト者への差別意識や優越意識をもつようになったら、すでにそれは根から腐り始めていて、すでにキリスト教でもなくなっていると判断されたほうがいいでしょう。
 自分たちの平穏や安心が確保されたあとに、“余裕があったら祈ってもいい”とかいうのも主が望まれている態度ではありません。
 自分の状態がよかろうと悪かろうと、隣人の平和と幸福のために願い祈りをささげるべきです。自分たちだけが安心と平安を得られたら良いというのは、まっ たくもってカルト思想と同じであり、聖書の示しているオリジナルの考え方から逸脱しているとされなければなりません。