Tokyo 3月6日(月) 
   
死の考え方

 人にとってほんとうに必要なのは“老後”のことではなく、“死”への備えです。
 かねてから、わたしは「老齢になったら仕事をしないでも生きるために国から養ってもらおう」とは思っていませんので、生涯現役で労働者として生きていくつもりです。病気や加齢による体の不調のことが不安で、もしものときの安心としての保険だとか大切に考えるのもわからないでもありませんが、年金をいくらもらってどうやってありあまる“暇な時間”を充実させるかということに頭を悩ませるよりも、最期まで精一杯生きて、平安のうちに世の命を終えるという生き方が、聖書の時代に生きた人たちの生き方だったと考えるからです。
 キリスト教的にいえば、生きている人が死んだ人のことについて何も関与できません。死後の世界とは、完全に神だけが支配する領域だからであり、生きている人が死後の人のあれこれを操作したりコントロールしたりはできないという信仰の考え方に立つからです。
 墓のことについていえば、墓をつくるのは、霊を慰めるという「慰霊」や、死後の人の魂を迎える「招魂」という考え方に基づいているからであり、聖書の示す真実は、「人は霊を慰めたり、霊魂の状態に何らかの貢献ができない」ということなのです。
 地上を去った偉人や親しかた人について定期的に偲ぶ習慣は美しい伝統であるとして、キリスト教圏にも古来から存在します。
 けれども、墓をどれほどりっぱにつくったからといって、死後の状態に何らかの変化がもたらされるのではなく、どのような葬られ方をするかで死後が決定するのでもないからです。
 法律に従って火葬くらいはおこなったとしても、墓をつくったからといって祝福が増加するわけではんなく、反対に墓をつくらなかったとしてもそれだけで呪いを招くこともない。少なくともそう考えるのが死後について考える上の聖書的な基礎です。
 
 それゆえに、今生きている人は、原則として、すでに死んだ人からどんな縛りも受けるべきではなく、死んだ人が生きている人にたいしてどのような負い目を負わせるべきではありません。
 エノクのように、ある日、消え去るように地上からいなくなるのが死の現実ではないのは承知していますが、それでも誰にも迷惑をかけずに静かに世を去るのは理想です。
 「人は、その人が生きてきたようにしか死ねない」というのもまた至言といわなければなりません。
 
 ウエストミンスター小教理問答には、信徒の死について、簡潔で美しい表現で聖書教理がまとめられています。
Q37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか
 答  信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。

 信徒は死の時、肉体は土に帰り、魂は死のときただちにキリストと結び合わされ、キリストが復活して新しい肉体を得たように、やがて信徒のために新しい完全な体が用意されるというのが“イースター(復活節)”を祝うキリスト者の根源の信仰に基づく考え方です。
 すでにキリストにある希望を勝ち得ている人の死のために、生きている人たちが膨大なお金と時間を費やすのは無駄です。
 故人が大きな信仰の見えない遺産を残している場合、葬式のなかで地上に残された者たちが、霊的遺産について思いめぐらすことは有益であるに違いないとしても。