Tokyo 3月05日(日)
   
政治が宗教と結びつくことで生まれる悲惨
 
 「真理は自由を与える」という意味は、真理の信憑性が実現される自由度によって推し量られるという意味ではありません。自由の意味をどう考えるかにもよります。偽の真理ではなく、ほんとうの真理は人を自由にします。それは行動の自由ばかりでなく、最終的に人を恐怖に陥れる奴隷状態から自由とされるという意味でもあります。
 けれども教会内部において“自由”が無制限にあると考えるのは誤りであり、教会の基本教理という信仰のコードに関して言うと、教会内にはキリストの神性について議論する自由は存在しません。キリストの復活があったかなかったかという議論も許されません。教会の内部には政治の分野でいう意味の“信教の自由”は存在しないのであり、あるのは、他宗教への寛容論と、キリスト教が国家にたいしての祈り、そして「政治」と「宗教」を鋭く分離するのは監視する役割を担うべきであるという議論であり、政治の世界には厳格な政教分離が必要であるのを是とするのが近代の法体系に生かされてきた政教分離原則の礎石なのでした。
 どれだけキリスト教が政治的影響力となろうとも、他宗教への政治的迫害が惹起されないように監視するというのがプロテスタントの伝統的立場です。
 その意味からいうと、政教分離原則のなかで「宗教」というとき、キリスト教も例外ではありません。
 キリスト教が政治権力と結びつくことにも市民サイドからの監視が必要であるとされてきたのでした。米国ではプロテスタントキリスト教の勢力が強く、聖書を手に置いての宣誓が慣例化しているとはいえ、それさえ政教分離原則からいうと問題とされるのであり、宣誓するときの“神”がキリスト教世界でいう“無規定的神”=“理神論”という、神とは名ばかりで、聖書的キリスト教からは出てこないという指摘があります。それでも、警察や軍隊という俗権を握った政治家が聖書をふりかざして自分の行動を正当化したとき、どれだけの恐怖が民に訪れるか、どれだけ民の人権を危険に晒すか、過去に聖書をもちいた独裁政治の数々が欧米史にも存在し得たのでした。
 
 現大統領のトランプさんさえプロテスタント改革主義教会に所属していると“言わざるを得ない”米国内の支持母体があるのですが、一方で、政治が宗教と結びついたとき、「歴史上ろくなことがなかった」いう猛省があるために、たとえば教職者がその立場を維持したまま政治活動をするなどは米国社会では(例外はあるとしても)ほぼありえないとみていいのです。
 日本の場合、周知のように創価学会が公明党の名のもとに政教一致の状態を生み出しているため、列挙できないくらいの悪が日本に蔓延する悲惨をみています。
 憲法違反状態が生み出されているという意識が必要ですが、もっと大切なのは政治と自己絶対化を旨とする宗教が結びつくとき、反民主主義的なあらゆる悪が跋扈しはじめることであり、安部政権のもとに目の当たりにしている悲惨の現実すべての根源に、政治と創価学会の密接な関係があるのは火を見るよりも明らかなのでした。
 カルトとは、目的のために手段を択ばない集団なのであり、宗教的見地から目的が正しいとみなされたら、「合法」と「非合法」、「正義」と「悪」、「民主的」と「反民主的」などを区別するための判断基準をもてなくなるのであり、そうなると、あとは「残酷」と「憐み」、「平和」と「戦争」の区別さえも曖昧となるのでした。どれだけ残酷であろうと、残酷とは神の憐みが実現されるための手段に過ぎないのであり、人殺しさえ自己目的の平和を実現するための手段のひとつに過ぎなくなるからです。安倍政権が本当にカルト化しているとしたら、このような「暗殺による支配の肯定」さえありえなくもないのです。