Tokyo 2月22日(水)
   
2017年2月19日(第三主日)多摩みぎわキリスト教会 礼拝説教
聖書 ピレモン書 8−14節
説教題 主の奴隷として
−−−−自発的であるように−−−−

私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、 9    むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、 10    獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。 11    彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。 12    そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。 13    私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、 14    あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。


パウロがピレモンにあてている手紙です。
そのなかにある「親切」というテーマ、とくに、ここでいわれている「自発的な親切」とは私たちにとってどんな意味があるのでしょう。それと反対に、強制的な親切はあるのでしょうか。
信仰と関係なく、生まれつき親切が身に付いた人がおられるでしょう。親切が心地よいものであるというのは万民共通ですが、クリスチャンにとって親切さとはどういう意味なのでしょう。

フィレモンへの手紙は、フィレモンに親切な行動をお願いする手紙です。
特に、14節にご注目いただきたいのです。
14節 あなたの承諾なしには何もしたくありません。それはあなたのせっかくの良い行いが、強いられたかたちではなく、自発的になされるようにと思うからです。

「あなた」とは手紙を受け取ったフィレモン。わたしは手紙を送ったパウロでした。パウロはフィレモンに良い行いをお願いしているのですが、それが「強いられたかたちではなく、自発的になされるように」というのです。

どんなお願いだったのでしょう。

 手紙を受け取ったフィレモンもオネシモもコロサイ人だったと思われます。フィレモンはコロサイに住んでいたローマの自由人であり、オネシモはフィレモンのところにいた奴隷でした。
 
 奴隷だったオネシモは、ある事情があってフィレモンのいた家を脱走し、コロサイからも逃げてローマに向かったのでした。ローマでパウロにどのように出会ったのか書かれていないためにわかりません。しかし、逃亡してきたオネシモがパウロと出会った結果クリスチャンになったのでした。
 オネシモが主人のところから逃げた理由は、フィレモンの大切なものを壊してしまったのかもしれません。オネシモが、正直に打ち明けて謝り、許してもらうという方法をとらなかったのは、奴隷状態から逃げるきっかけとなったからなのかもしれません。
当時抑圧された奴隷たちが逃亡するというのは日常茶飯事だったといわれていますので、家畜のように使われて、命を奪われたとしても主人には何の責任も追及されない社会でした。奴隷たちからすると、何かの機会があったら逃げたくもなったでしょう。
 逃亡した奴隷オネシモは、とりあえずの逃亡先としてめざしたのは大都会であるローマでした。見つかりにくいからでもあり、どこかに隠れ場所があると考えたからでしょう。
 はっきりしているのは、この手紙が書かれたのは、逃亡事件があった後ですが、心の傷が癒されたとはいえないまま、すでにフィレモンはパウロを通じてクリスチャンになり、逃亡してきたオネシモも同じ信仰をもつようになっていたという事でした。

 フィレモンからみれば、クリスチャンになる前の事件でしたが、未解決であり、オネシモのことを思い出すたびに暗い気持ちになっていたに違いないでした。
クリスチャンになった後にもクリスチャンでない時代の未解決の問題が残っていたとみることもできます。

 フィレモンからしたら、クリスチャンでなければ、逃亡奴隷がもとの主人のもとに帰るなどということありえなかったし、損害を受けたのであればなおさら逃げた奴隷が帰るとは思わなかったでしょうし。オネシモの側からみえも、元の主人のところに帰りたいとは思わなかったでしょう。逃亡奴隷を殺したとしても犯罪ではなかったからです。
 そのようなオネシモをフィレモンのもとに返したいと願ったのですが、大切な変化がありました。いうまでもなく、フィレモンがすでにクリスチャンとなっていたのであり、そしてオネシモも同じクリスチャンになったことでした。
 パウロは、ここでフィレモンに親切な扱いを願っているのですが、パウロがこの手紙なしに、いきなりオネシモを返したとしても、フィレモンは受け入れたに違いありません。オネシモについての噂を聞いていて、それだけでいきなりオネシモが送り送り返された場合、「いわなくても分かっているよね」「みればわかるよね」とおしつけるような態度を示さなかったのです。
手紙を書くことそのものがパウロの「親切心」から出ていたのでした。手紙にとって、オネシモの状態を知らせ、パウロがオネシモどのように受け入れているか、パウロがオネシモとフィレモンの関係が改善されて、最善がなされるのを願っていると理解してもらえるからでした。
主のみ業は、信じるわたしたちの行いについて新しい意味を与えるものとなったのです。

パウロの立場や言葉が、フィレモンにとって「強制」とならないように配慮しているといえます。パウロは、これが強いられた親切とならないように配慮しています。いえ、結果が良ければ強制だろうと自発的だろうと関係ないとお考えになるかたがおられるかもしれません。けれども、パウロはそう考えませんでした。強いられたとしても親切は親切でいい。けれども、新しく生まれ変わった人生にとって親切にさえ新しい意味が生まれていると知らされるのです。聖書によればクリスチャンとされたものの親切な心は聖霊の実として与えられるのです。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制。このようなものを禁ずる律はありません。(ガラテヤ書)
 聖霊の実として、親切が加えられています。

 聖霊の実として与えられる親切の特徴は、行いが強制からではなくなるということです。

 人を動かすときに、様々な力を利用しようとします。お金の力、地位の力、言葉の力、法律の力。しかし、パウロはここでフィレモンにオネシモの件を願っているのですが、それは、先輩と後輩でもなく、上司と部下でもなく、そのような“世の力”に頼っていないのです。パウロは、自分の願いが、強制とならないように配慮しています。
パウロが「強いられてではなく」というとき、パウロ大先生がそういうなら、フィレモンが「ほんとうはいやだけどパウロ先生のいうことなら仕方がない」という受け止め方をしないように気遣ったのでした、
 強制とは、世に言う法律がわかりやすいですが、聖書が強制というときは、法律違反だから従うとか、規則だから従うとかだけではなく、人が人にたいして与える威圧とかときには脅かしとかばかりでなく、信仰に基づかないすべての威圧が含まれています。
 パウロが「強いられてではなく、自発的にオネシモを受け入れるように願う」のですが、ここでパウロは、フィレモンがオネシモを受け入れるとき、使徒の権威に恐れをもって、たとえば、これをしなければパウロが怖いとか罰が下されるとかいう考えに支配されてはならないという意味だったのです。
 ひとつの考え方として、結果が良ければ、どんな手段をとってもかまわないのではないかがあります。フィレモンにとってオネシモが帰るというのは良いことなのだから、パウロが怖いから受け入れるとかだったとしても、結果オーライでいいではないかというものです。パウロはそう考えませんでした。オネシモはすでに生まれ変わったので、オネシモを愛をもって受け止めてほしいというのです。
 パウロのように愛を持って受け入れる。パウロに倣うようにという言い方もしていないのでした。「自発的でなければ」といわれているのは、パウロ先生がそれほど言うなら考えようとか、パウロ先生がそうしているなら自分もでもなく、フィレモンはすすんで主イエスさまの心に動かされ従うべきでした。そして、自分のように一人の回心したクリスチャンの心をもって兄弟として受け入れてほしいというのでした。

 パウロは、フィレモンのおこないが自分を喜ばせるようになると知っていましたが、自分を喜ばせることが目的ではなかったのでした。
 聖書と関係なく、一般に親切ということばがつかわれますが、信仰があるなしに関係なく親切はすばらしいことばです。もともと、親切な心を持っている人だったり、ときどき、世の親切には「恩を売る」ということが伴います。
 後に、フィレモンとオネシモが和解できたのはパウロのおかげとかいわれたとしても、パウロの願いはそのような自分への尊敬が増し加わるかどうかではありませんでした。
一般に、そのような見返りを期待しておこなわれる親切ならわかりやすいのですが、クリスチャンが親切というとき、全く別の意味があります。
 同じおこないでも、心からなされることを喜んでおられるのです。
 献金について教えるコリント第二 9:7
 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださいます。

クリスチャンに与えられている親切な心は聖霊によって与えられる賜物です。罪の心を満足させるものではありません。多くの主にある実を結びますが、罪の心を満足させるものではありません。自分を喜ばせるようにではなく、キリストの心に倣ってキリストを喜ばせるようにしておこなわれるべきだということでしょう。
 
 クリスチャンになるというのは、すべてキリストの心にかなうような行いをするのを喜びとするというのです。自分中心は入り込みます。主の心にかなうと導かれることをおこなうのです。主のためでありつつ、結果としてそれが人をも喜ばせるためであるというのはあるでしょう。人が感謝と喜びに満たされるのは主の心ですから、きっと人にも喜んでいただけるというのは主の心にかなうに違いありません。
 パウロはコロサイ人への手紙で、奴隷の身分にある人々に語っています。
コロサイ3:22−23「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい、人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ真心をもって従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主にたいしてするように、心から行いなさい。」
第二は、パウロが示した“親切”です。「オネシモにもし負債があったら自分に請求するように」とすすめていて、これによって、フィレモンとオネシモの心の負担を軽くしようと努めているのです。

  「結果がいいのだから、ある程度の強制や犠牲はしかたない」ではなく、できる限り、人々に重荷をかけないような配慮を伴っていたのです。もしも、パウロが手紙を書かずに、いきなりオネシモを返したら、それさえ無言の圧力となったに違いありません。相手がキリスト以外から強制を受けないようにするためにも、手紙を書いたのでした。新しく生まれ変わって、訓練されたオネシモだから、渡りに船であり、自分のところにそのまま留めておいたほうがパウロのために良かったとしても、あえて、そうせずにフィレモンとオネシモにとっての最善とはなにかを考えました。自分にとって都合がいいので自分の都合だけ考えて、相手にとって不利益がったとしても、いつまでも留めておきたいとは思わなかったのです。

 (1)聖霊の実
 聖霊とともに働く親切とは、愛をもって働くのです。相手にとって残酷でしかない親切は、聖霊が生み出すものではありません。
クリスチャンとは、キリストの奴隷となった人々です。しかし、キリストに捕らえられるとは、世に言う囚人ではありません。
聖霊によって働く親切は、かならず良い結果を生み出します。
オネシモが手紙をパウロにもっていった結果どうなったか、コロサイ書に記されています。

また、あなた方の一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。
                                         (コロサイ4:9)
オネシモはフィレモンのもとにかえされ、兄弟の一人となり、主のために働くようになっていたのでした。
 聖霊の実は、豊かな別の実を生み出すのです。

(2)自発的になされること
 これをしなければ、誰かが怖いとか、あの人が言うなら従っておいたほうがいいとか、いろいろなねらいがあって、そういう人の動かし方が得意な人はおられるでしょう。けれども、イエス様がクリスチャンに求めておられるのは、恐怖とか強制に基づいた支配ではありません。パウロが「自発的に」というのはそういう意味です。イエスさま以外に自分を縛るのはないのですが、いいかえれば、イエス様に縛られているのですべての人に仕えることができるのです。
 何かをしなければ罰を受けるので、罰を受けたくないならこうしなさいとかいう信仰はキリストから来ているのではありません。地獄に行くのが怖いと思ったらイエス様を信じなさいというのも同じです。恐怖や恐れ、心の痛みをやむおえない犠牲と考えるやりかたは、たとえ宣教の名をもってなされていたとしても、聖霊が望んでいるものではないのです。

 神の霊に導かれるものは、皆、神の子なのです。あなたがたは人を再び奴隷として恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。(ロマ8:14-15)

(3)犠牲を伴う
 何か負債があったら自分に請求してほしいと述べています。オネシモの負担を軽くするためであり、オネシモに責任追求しなくて済むことで、フィレモンへ負担も軽くなることになります。聖霊の実である親切は、人に別の奴隷の心や恐れや負担を与えるのではなく、主のとして縛られること以外のすべての外面的内面的なしばりから解放するように配慮を伴うものです。

 逃亡して行方不明になっていたオネシモが、主のしもべとなって元の家に帰ってくるというのはフィレモンにとって、昔の傷が癒される救いとなったに違いありません。その家は、奴隷として囲われていた監獄ではなく、キリストに召された人々が集う教会でとされていたからでした。フィレモンがオネシモをどう扱ったかは、
コロサイ書4:9
また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。
 ここではすでにオネシモは「あなた方の一人」つまり教会の一員となり、主のために仕える奉仕者として働いているのでした。
 聖霊による親切という一つの実は、別の賜物とも繋がっています。
 恵みと祝福に満ちあふれるクリスチャンとさせていただきましょう。