Tokyo 2月17日(金)
   
選択が可能なのかどうか

 AとBとCどちらの方法(手段)をとっても、同じ結論に到達する場合、同じ結果が得られるなら、Aだけではなく、ABCどの道を通ってもかまわないという選択可能性が委ねられているのだとしたらどうでしょう。
 選択者がどの道を選ぶかは状況に依存しているのであり、ただ結果だけが問われるという場合と、それにたいして、いろいろな方法が考えられるとしてもAという一つの手段をとるしかない場合とを比べてみると、選択者(特には学習者だったりする)にとっては、状況に応じて道を選択できるほうがより仕事の負荷が少なくなり、そして同時に精神的負荷も軽減されると考えます。
 たとえばAの方法よりBのほうがより“早く、きれいに、正確に”できると判断できてそれを選択できるときは特に精神的負荷が軽減されるに違いありません。
 計算するときに“筆算”と“そろばん”しかないときは、そろばんしか選択肢がなかったということになりますが、現代は電卓があり、さらにPCのエクセルがあれば電卓すらいりません。電卓しかつかえないとかエクセルしか仕えないではなく、いずれも場合によって選んで使ってよいというほうが優れているのであり、オルタナティブな選択というのはそのような意味です。ごくたまにエクセルもバグをおこすので、検算のためであれば筆算やそろばんを使ってみてもいいのであり、たとえば社訓としてPCしか使ってはならないなどという謂われはないはずです。

 つまり“オルタナティブ=選択可能性”というのは、教育の分野ばかりでなく、なんであれ仕事にたいして効率化を求める分野で応用されうるかもしれません。
 日本の教育にはもともと選択肢というものがなくて、学校しか道がないというとき、一つの道に適応できない個性などをもっている場合には制度そのものが深刻な欠点を持っていると判断しなければならず、世界のホームエジュケーション運動は、どの国の場合でも教育の選択可能性をあらかじめ想定しておいたほうが、道が一つしかないというより豊かな結論を生み出せるという認識があるのです。
 Aしかないという場合の弊害は、第一には個性の違いや多様性に従った方法論をたてまえとして捨てなければならないこと。
 それゆえオルタナティブな選択はすべて“地下活動”のような扱いを受けることになります。教育でいうと、遠山さんの水道方式や、公文さんの公文式などは、それぞれ良い結果が生み出されるとしても、公式的な道ではなく一つの選択しかないところに生み出されたサブカルチャーのように扱われる憂き目をみてきたのでした。
 オルタナティブ教育への攻撃があるとしたら、「Aしかない」としていたところに張り付いていた教材販売や受験産業など様々な利権にとっては“損益”を生み出す社会的要素とみられ、これを迫害するかあやよくば法的禁止の実現までも視野に入れたロビー活動さえ生み出したのでした。
 ホームエジュケーションについていえば、これがどの国の公教育にとって脅威なのではなく、それどころか、選択可能性を織り込んだ教育システムが生み出す豊かさを取り入れることによって学校でのいじめや競争原理による弊害を軽減する役割を果たすようになってきたのは明白なのでした。家庭が学校教育を補完する役割しか与えられていないというのも、学校教育のみ一辺倒の考え方の亜流に過ぎないのであり、オルタナティブ教育からみると“頑固で頭の固い”“使い物ならない旧態然とした”に縛られた考え方であるとみえます。

 同じ結果が得られるのであれば、AでもBでもCでもいい、どれを選ぶかは任せるという考え方のほうが、より豊かな結果を生み出すというのは“いい加減さ”とか“適当”とかと混同されやすいかもしれません。
 俗に言う“頭が固い”状態からみるとオルタナティブ教育は「わがまま」「適当」というレッテルしか見えてこないかもしれません。
 一つの結論を生み出すためにはこれしかないという考え方に囚われているのはどうしてなのかという別のテーマの呼び水となるでしょう。なぜ日本人が東大信仰から抜け出せないのか。なぜゲンパツに依存しなければならないと考えるのか、電源を得るためというのであれば選択肢など限りなくあるはずなのに。
 ここでいう「頭の固さ」が何ゆえに生み出されてきたのかというのも分析するとおもしろいと思います。すでに慣れ親しんだ方法を手放すのが面倒とか、たとえば雪などで交通機関が麻痺するかもしれないとわかっているのにどうして日本だけ受験期を“決算期の忙しさ”や“雪害”などの弊害が予想されるにもかかわらず春期に設定したのかなど、まさか“桜の舞い散る入学式”のイメージを実現したいからなど・・・、真偽のほどはわかりませんがその程度のこだわりで受験生を苦しめてきたのは悪癖以外のなにものでもありません。
 学校の制服ひとつとっても、学校で決められた制服、(挨拶するときの腰の角度まで規定していた笑い話のような校則さえあるとのこと、挨拶など目上の人への尊敬の心さえあれば、なにも仰々しく校則などで規定しなくともいいでしょうに)家庭の経済的負担も軽くなるし「制服でも私服でも好きな格好でいい」とするほうがよほど学習意欲がわくのではありませんか。オルタナティビティを確保するとはそういう意味です。
 それにしても、安倍さんが現在バックアップしようとしている“古式豊かな教育施設”はここでいうオルタナティブな教育原理と真っ向から対立しているのは明白です。