Tokyo 2月11日(土)
   
 私は、彼を私のところにとどめておき、福音のために獄中にいる間、あなたに代わって私のために仕えてもらいたいとも考えましたが、 あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。(ピレモン書)

 パウロがフィレモンに求めた「自発性」とは何かというテーマを考えていました。
 誇張していえば、これは学生時代からの「自由と束縛」というわたしの学習テーマのひとつでもあり、近代の法律の条文をあれこれ言い始める前の、前提の前提のような議論とも重なります。国家の近代法が成立するまえ、ユダヤに存在していた「モーセ律法」は近代の法律の母体であるされています。ただし問題は、たとえばキリスト教が国教となっていると仮定した場合、他宗教への迫害がありうるのかというテーマでもあります。イスラム法や共産国家のように、一つの宗教が独裁している国家の国内で他宗教の存続を許すか許さないかというレベルでは、独裁制をひいているイデオロギーを批判しない範囲で存続を許されるということや、旧ソ連でも「宗教が存在する自由」と同時に「宗教を迫害する自由」もあったわけで、自由の意味を限りなく制限するのが一党独裁国家の特性ともいえるのでしょう。「日本会議」をひとつのカルト集団であるとみれば、独裁国家にみられる自由の制限が目論まれていることがないとは言えないのです。
 ローマには奴隷を所有する“自由”がある一方で、自由人には所有している奴隷についての生殺与奪権が与えられていました。生かすも殺すも自由だったわけで、生かしておいて使えるならそれもよし、殺しても罪に問われないのですが、奴隷の身分におかれているというのは、当時は家に閉じこめられるとかの幽閉状態ではなく、場合によっては家庭教師など教育者になったものさえあったのですが、人としての自由はなく、おしなべて家畜並み。つまり、逃げたオネシモを殺しても、ローマの法律によれば殺人罪に問われることはなかったのでした。
 パウロがフィレモンにもとめた“自発性”には、ただ人として寛大な処置を求めているという解釈を加えるのは間違いです。「あなたのところから逃げてきたオネシモは、わたしのところで再訓練されて、まともな人間になったので、もとの所有者であるあなたのもとに送り返す」という意味ではないのです。いえ、もしそのように読むとしたら、聖書の“誤読”に他なりません。
 フィレモンからしたら、パウロは恩師、もしくは恩人でしたら「あのパウロ先生の頼みなら、それはそれは恐れおおいことで、断るわけにはかない」とされてもおかしくなかったのですが、パウロからしたら、それこそが“強制的”な受け止め方に他なりません。
 フィレモンがパウロを尊敬しているという前提で手紙が書かれているとしても、パウロは自分への尊敬を当然のこととして、フィレモンに要求しているのではないのです。オネシモを受け入れて自分の顔を立ててほしいというのは、聖書の読み方として、健全なリテラシーとはいえません。自分の考え方にとって納得のいくような“つまみぐい”をしているようなものです。
 「オネシモを受け入れなければパウロが怖い」とか「他でもないパウロの願いなら受け入れざるを得ない」とフィレモンが考えてしまうとしたら、パウロの真意とは全く違った結果を生み出すと考えられます。
 パウロはキリストに受け入れられてキリスト信徒となり、召されて伝道者となりました。フィレモンもパウロとの出会いを通じてキリスト信徒になり、そして逃亡してきたオネシモもパウロとの奇跡的な出会いにより信徒となりましたが、フィレモンはパウロを通じてキリストと出会い、オネシモも同じだったのです。パウロはどれだけ自分が“案内係”だったとしてもフィレモンには自分への恐れとか尊敬とかをモチベーションにしてではなく、自分と同じように人の心に阿(おもね)るのではなくキリストの心に倣うように願ったのでした。
 どれだけ真摯で親切な行為があったとしても、“これをしなければ誰かにおこられる”とか“これをしなければ罰が下る”とかいう動機が少しでも紛れ込んでいるとしたらあなたの信仰をピレモン書からもう一度再検討されるようにおすすめします。
 パウロはローマ人への手紙で「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。 」(ローマ8章15節)とも語りました。
 “地獄に行くのが怖いと思うならわたしの言うことを信じて従いなさい”とかは、霊感商法みたいな、これを買わなければ呪いが解けないみたいなそれこそが“宗教詐欺”であるに違いありません。人の顔色をうかがってではなく、キリストのために自発的におこなわれる親切がどれだけ豊かな結果を生み出すのかをみたのは他でもないフィレモンその人だからです。(コロサイ書参照)
 教育についていえば、強制的なやりかたでも結果が良ければいいというのも間違いで、いかにして強制的にならない道をつくるかが教育の真骨頂なのでした。
 反対に、ここでいう自発的動機を「甘やかすこと」と混同するのは、聖書を人が生み出した詐欺と同列とみなすのと同じで、単純な無知もしくはただの不勉強にしか過ぎないのです。
 法律論からいえば、わたしは、法とは、もともと「国家が国民の自由に制限をかけるのを防止する楔」のようなものであるというご意見に賛成です。自由とは「国民から絶対に奪われてはならない権利」だからです。ですから今の日本国憲法のもとで天皇家もしくは天皇ご夫妻に課されている不自由もしくは特権のようにみせた幽閉は法的には大きな問題を含むといったほうがいいでしょう。