| Tokyo | 5月11日 |
日野バイブルチャーチ
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2008年月11日 礼拝メッセージ アウトライン
吉井春人牧師
聖 書 第二コリント2章1〜13節
説 教 悲しみを超えて
使徒パウロはコリント教会に罪の自覚が生まれ、悔い改めに導かれるための努力をつみ重ねたのでした。
最初の努力は、罪を群れ全体にとって明確に自覚するための努力でした。罪があかるみにされたとき、判断する基準は、「チームが円滑に動くため調和」という集団主義ではなく「主が罪をどのように扱われるか」という王であるキリストのみ心を尊重することです。もし、教会が罪の取り扱いを曖昧にし、心から悲しむことがなければ、主はその群れを切り離されるのだと知らなければなりません。主は、主にふさわしい群れに変えられるように願っておられるのです。そのように、罪は主の怒りを招きますが、罪を曖昧にすることは、さらに主の怒りに抵触するのだといえるでしょう。教会で公にされた罪を個人の自業自得で終わらせずに、罪を教会全体の罪として受け止め、悲しんだのでした。個人主義が支配する現代人だからこそ、群れのなかの一人の罪が、群れ全体に影響を与えるのだと学びたいのです。そのために、テモテとシルワノが遣わされ、パウロの手紙も送られました。
そして、もう一つパウロが示したのは、罪から解放され、癒されるための努力でした。教会のなかで罪を犯した信徒を、札付きものにしたり、それゆえに白い目で見られたり、仲間はずれにするようではいけません。コリントに与えられた悲しみが喜びに変えられるために、パウロはあえて訪問の予定を変え、事が人間的な解決を生まないように配慮したのです。
厳しい処罰は、罪を犯した側ではなく裁く側にサタンの罠を見えなくさせてしまいます。キリストにある愛が失われるとき、さらなる罪の温床が生まれるのです。罪の誘惑に警戒し、罪が群れ全体に与える影響の大きさを知らなければなりません。しかし、罪が本当に癒されるとき、群れ全体が癒されることになるのです。(ヤコブ
5:20)
そして、罪に対して厳格な態度を示した側が、主イエス様ではなく、サタンの手下になりうるという罠があることも知っておきたいのです。