聖書の女性(その1)

 ホームスクーリングは、米国においてはクリスチャンの草の根運動として展開してきました。はじめから、周囲にあわせるとか“長いものに巻かれろ”とかいう考え方と決別して、ホームスクーリングに足を踏み入れることにより、ホームスクーリングにおいて、クリスチャン信仰の質そのものが問われことになるのでした。つまりは、ホームスクーリングをはじめたときから、荒海のなかに小船をかり出すようなのであり、大波や小波、つまりは、さまさまな異なる思想との違いや、ときには、対立さえ意識しなければならなかったのです。ただし、それらの多くの波乱は、ホームスクーリングをせずに、学校に子どもをやっていたなら、本当は何も意識せずに済んだかもしれなかったでしょう。

 どんな国でも、国家の教育戦略から解放されるのが課題であったのですが、、1990年代初期の米国のホームスクーラーには、日本のホームスクーラーのなかであまり話題にさえされてこなかった“フェミニズム”との対立を鮮明にした人たち(たとえば、メアリ・プライド氏など)が多数おられました。
 日本で、これまで、フェミニズムが話題にされてきませんでした。なぜか・・・、・少なくとも、ぼくにとってはまだ不明です。たとえば、夫はホームスクーリングのために、仕事の内容を変え、場合によっては職場を変えも、家庭でいる時間が多くなるように努めます。そして、妻は、それまでやっていた仕事をすべてやめて、専業主婦となって家庭に引きこもるようになります。そして、ホームスクーリングが専業主婦を促進しているとみられることから、ホームスクーリングを真っ先に攻撃したのはフェミニズムの立場でした。いうまでもなく、男性に支配されている社会から女性を解放する運動のルーツは、哲学者ジャン・ピエール・サルトルの事実上の妻であったシモーヌ・ド・ボーヴォワールにあるとされています。
 もっとも、直接フェミニズムについてあれこれ述べるのは、ぼくのページの直接のねらいではないので、聖書のなかの女性たちについて数回のシリーズにわけて述べることにしました。それよって、おのずとフェミニズムへの反証がみえてくるでしょうし、同時に、ホームスクーリングをおこなううえの、“聖書の女性像”の研鑽のためにも、せめて参考程度にはなるのではないでしょうか。

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 イブ

 アダムの妻とされた女性です。創造主のみ業はすべて「すばらしかった」のですが、創造の業が極められた領域、そこにイブがいました。
 当然、イブには、まだ子どもはいなかったのでした。イブは、子どもの母である前に、夫の妻だったのだという認識があるべきです。ですから、子どもは好きなので育てたいが、男はきらいなので結婚はしないという考え方は聖書的ではありません。いえ、むかしみたいに、家系を断絶させないためだけに、子どもを生み育てるために結婚なんていうのも、聖書の示している結婚観には馴染まないのでした。
 子どもたちのおかげで、夫婦に生まれるさまざまな問題の深みにはまらないで済むとか、子は鎹(こはかすがい(=子どもは、夫婦の仲を和やかにし、夫婦の縁をつなぎとめる役割をするものである)といわれるのは事実だとしても、結婚した女性にとって、聖書的に考えることを最優先するなら、まずは、自分は、夫にたいしての妻であると自覚すべしなのでした。母だということが二次的な意味しかないと言いたいのではなく、女性は、母親としてあれこれの賜物に忙殺されてしまうと、妻としての自分のあり方について聖書のもとに再検討したり、吟味するのがおろそかになるかもしれません。子どもの母として、まずは、一人の夫の妻であることを自覚すべきなのです。
 イブは、夫のアダムが眠らせられている間に、アダムのあばら骨をもとに、創造されました。女性が男性にたいして従属的だといいたい人たちにとって、女の支配者は男だみたいな言い方の根拠とされることでしょう。もちろん、そのような考え方が誤っているのはあきらかです。
 イブは、神により、男の助け手として造られました。イブを創造したのは、神であって、アダムではありません。アダムは、何もせず、眠っていただけでした。ただし、男が女のために造られたのではなく、女が男のためにつくられたのです。それが従属関係ではないのは、第一に、すでに完成度が高かったアダムでしたが、イブの登場によって、改めて、人は完全な存在とされたのでした。イブは美しかったでしょうけれど、その“美”は、都会的に人工的に洗練された美というものではなく、美が創造主の賜物だという意味で、たとえば非常に美しい花が、自分の力によらず自生しているように、そのまま創造主のセンスがあらわれていたのでしょう。いえ、一方で、妻となることだけが女性の役割ではないということ、人が生きるのは結婚だけではないということも聖書的に肯定されるとしても、アダムからみて、妻とされたイブのすべてを受け入ることができるように、心も体もアダムのために創造されたのです。
 周知のように、サタンは蛇を通じてイブを誘惑しました。もし、イブがいなければ、アダムは堕落しなかったとか、あるカルト宗教のいうように、イブのほうが罪深いというのではなく、イブの近くにいながら、見て見ぬふりをして、警告しなかったアダムの罪は、加重されるのでした。それゆえに、原罪は、イブではなく、アダムに帰されます。もちろん、それは、イブに無罪がないとか、堕落を免れているという意味ではありません。イブは、自分の弱さを認識すべきだったのです。蛇の誘惑の場面では、自分の判断によらず、まずは直接神から禁止を受けたアダムにたいして、確認すべきだったのでした。
 
 具体的なことですが、たとえば、妻からみて、夫があきらかに間違えていると判断したとしても、夫に反抗するような言動に出るのではなく、夫にたいして、主が直接間違いを教えてくださると信じて、とにかく、夫に従うように行動したほうが、良い結果を得られるでしょう。もちろん、夫への盲従ではないのであり、妻は、夫のために最善の判断が出来るアドバイザーとなれるでしょうけれど、夫が、いつも妻の意見に影で操作されているのは望ましくないのです。一見、妻が夫の意見に従って行動したとしても、アビガイルの例に待つまでもなく、実は「神の手に陥る」ことくらい、“恐ろしい”ことはありません。いえ、妻の賢さが発揮されるのは、まずは、夫のへの従順な態度からはじまるのだといえるのです。それは、本音を隠して、猫をかぶる偽善というのではなく、自分が正しいと考えて、いつも夫に反抗して行動する妻よりも、神の教えに従って、まず夫への従順を示す妻にたいして味方してくださるのだという意味です。
  アダムはイブなしにも過ごせたでしょうけれど、主なる神は、ゼロから土からではなく、アダムの体の一部を素材として造られたところから、もしイブがいなければ、まるで体の一部が失われたかのように、すべての動きに支障がでるように造られたのでした。夫が先に亡くなった妻は、一種の自由におかれるかのようですが、反対に、妻に先立たれた夫は、比較できないほど悲惨な状態におかれるのだと知っておくべきです。

聖書の女性(2) アダとツィラ
 
   レメクの妻となったアダとは、「飾り」。派手な化粧によって、レメクの気を引きたい姿。もう一人の妻ツィラは、「にぎやかな音」。つまり、歩くとチャラチャラと音がする装飾品によってレメクの心を支配したいという思いが連想させられます。
 その化粧や装飾は、単なる身だしなみの範囲を超えていました。
 聖書からみて、女性にとっての、化粧や装飾品というテーマは、別の課題でしょう。
 2人の妻には、化粧のよしあしについてより、自分の魅力によってレメクを引きつけ、そしてレメクを支配したいという心根(こころね)がみられたのです。クリスチャン女性に外面的な美しさや、美しさへの憧れが備わるのは麗しいことだとしても、それがアダとツィラのそれに優るものでなければ、罪のために奉仕することになるでしょう。
 信仰は、心に光を与え、人生観と世界観を変えます。それが結果として、それが外面にさえも現れてくるでしょう。しかし、「人はうわべを見るが主は心をみる」とあるように、主は、人の心を見ておられます。いえ、外見も、主が飾ってくださるに違いないとしても、アダとツィラには、創造主への祈りや、創造主の心にかなうことを慕うなどという心は、その片鱗さえみられないのでした。 
 しかし、レメクを支配したいというもくろみが自分勝手な思いこみだったことは、レメクが、自分の力を誇示し、妻たちに認めさせようとしていることからあきらかでした。自己顕示欲のかたまりです。だからこそ、アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺したには、殺人そのものよりも、アダとツィラにたいして、自分の力を誇示することに意味があったのでした。
 いいかえれば、アダとツィラには、レメクについて、それが正しいか正しくないかではなく、レメクの権力のもとに守られることへの安心感だけがみられたのでした。ひたすら男のため、ひたすら慕う男に気に入られたい・・・。ついに、良心も信仰も麻痺していて、“それが悪とわかっていても、悪に染まってもいい”という感覚。そして、レメクの権力誇示の欲望は、一夫多妻に及びました。聖書は、一夫多妻によって、どのような困難が生まれるかを赤裸々に記録しています。(アブラハムやダビデの例) 
 
 最初は、自分の美貌によって、レメクを支配したいと願いながら、実は、レメクの自己顕示欲を満足させるために罪に仕えるに過ぎない身の上は、哀れであり、ただ哀れであるばかりでなく、やがて子孫たちを破滅においやることになるのでした。
 
 

聖書の女性(3)  サラ

 神は、サラの夫であるアブラハムに、さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになると語られました。ところが、サラは、年を重ね、現実のなかで、主からの託宣を受け入れることに矛盾か、もしくは、ユーモアというより、皮肉なのかもしれないと感じたようです。あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によってあなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出で来るという預言を聴いたとき、アブラハムは心のなかで笑いました。このときの“笑い”には、少なくとも不信仰の種が生まれていたのだと思います。(17章)
 
 まだ見ていない約束を、現実のことと考えられず、そのとき見えるものに代替(だいたい)したくなるでしょう。「聖書の物語は、現代人にとってわかりにくいのであり、すべてがリアルなのではなく、一種のフィクションであり、本当に言いたかったことをふまえた上で、著者がファンタジー仕立てにして作り出したのであるから、すべてを現代人にわかる読み直しをしなければならない」とリベラルな聖書解釈者が物知り顔にささやくときも、ぼくは、このときアブラハムによって、サラの陥った“不信仰”への道と同じ道が開いていると考えます。そのような罪の轍は、男であれ女であれ共有なのでしょうけれど、見えない信仰の現実を、自分の目線や、自分がそのときに触れられるものによって“代替”したくなる誘惑は、たぶん女性のほうが強いのではないでしょうか。
 女奴隷のハガイに、アブラハムによって長男のイシュマエルが生まれたとき、結局、サラは、ハガイを受け入れることができず、ハガイをいじめ、その上に、家を追い出すことになったのでした。やがて、天使から、アブラハムの子どもが生まれるときいたとき、サラは心のなかで笑いました。この“笑い”は、事柄のリアリティーを受け入れられなかったという意味で、このときサラは不信仰に陥っていたのだといえるでしょう。
 不妊の現実と、年齢を重ねた体から推し量ると、自分が子どもを出産できるという知らせを現実として受け止められず、“笑い”のネタとなったのでした。
 ハガルの子孫、つまり、イシュマエルの子孫たちが歴史の中で示すことになる反抗は、見えないものを信じ受け入れる信仰から、一時的にでも離れて、より、可視的なもの、より、現実味のあるものによって、信仰の実現に見せた、「まがいものの信仰」の生み出す結果をみるようです。
 ただし、ぼくは、サラの行動は、アブラハムに忠実であろうとした行動なのであり、もし、サラに不信仰がみられたとしたら、それは、アブラハムのなかにあった信仰の揺らぎにすべての責任があったと考えます。 

 信仰の父と呼ばれるアブラハムの妻。サラの信仰に倣うべきだと使徒ペテロは言い、あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行なえば、サラの子となるは、すべてのクリスチャン女性にむけて語られています。 
 
 すでに還暦を過ぎていたにもかかわらず、サラがあまりに美しかったため、外国に滞在していたアブラハムは、夫に対する殺意が誘発されるのを恐れました。最初は、エジプトの王ファラオから、そして次にゲラルの王アビメレクから妻にしたいとの申し出を受けると予想し、事前に、両方とも、妻であることを隠して、妹だと偽ったのでした。女性の美は、罪の産物ではなく、最初に神からの賜物として与えられているとすべきでしょう。しかし、ソロモンの箴言にある言葉が、美貌についての聖書の立場を代表していると思います。麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。サラのすばらしさは、その美貌のゆえではなく、信仰にあるとされるべきです。いえ、信仰とは人から派生したのではなく、主から与えられる最も重要な恵みなのです。それゆえに、サラは人間的に優れた女性だったゆえに用いられたのではありません。さまざまな欠点があったにもかかわらず、主のご計画により、サラはただ恵みによって用いられたのでした。
 

聖書の女性(4) リベカ

 母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」

 アブラハムの息子イサクの妻リベカ。リベカには、双子の兄エサウと弟のヤコブが生まれ、当時においては、長男のエサウが、家に与えられた祝福の継承を受けるということになっていました。しかし、リベカは、エサウよりヤコブを愛し、ひとつしかない家督への祝福を、略奪するための計略をたてました。すなわち、老齢になったヤコブが目が見えなくなったことに目をつけて、ヤコブの手に羊の皮をかぶせ、毛深かったエサウを偽装し、イサクの祝福を弟のヤコブに“勝ち取る”ことに“まんまと”成功したのでした。
 いくらヤコブが自分の気に入っていたからとはいえ、つまり、自分にとって良いと考える目的のために、手段を選ばないリベカは、聖書を読む立場にとって、つまずきとなるかもしれません。祝福を得るためには、たとえ相手を騙すような計略であったとしても肯定されるのか・・・と。
 聖書のなかには、似たようなことがありました。
 カナンの地、エリコ城を攻略すべく、進入したスパイたちがいて、一方、侵入者を追うものがいました。そのとき、城壁の兵士達をあいてに売春していたラハブは、斥候達を逃すために、彼らを匿った後、「どこに行ったのかわかりません」と、嘘をつかい、事なきを得たのでした。つまり、より良いことのためには、嘘は、目的のための手段として受け入れられるのではないかという考え方があります。やがて、ラハブについても、述べたいと思いますが、リベカの場合にも、人道に背くような、不正の手段さえ、目的が正当化したら使えるのではないかというを判断を与えているかのようです。もちろん、そのような聖書解釈は、間違っています。聖書は、目的が正しければ、たとえ罪を含んだ「嘘」でさえ、手段として用いても良いなどは教えていません。
 事は、ヤコブがリベカの計略に乗った結果なのではなく、すべてが主のご計画のなかに織り込み済みだったのです。しかも、レンズ豆事件のとき、すでに、エサウは、ヤコブのつくっていた料理ほしさに、「長子の権利など、どうでもいい」と宣言しているのでした。いえ、その前に、つまり、双子が誕生した際に、主なる神は、「兄は弟に仕えるようになる」と知らせておられたのでした。
 すなわち、字面だけ読むと、事はリベカのずるがしこさによって、出来事の流れが変えられたかのように、長子の権利を奪ったのようにみえながら、実は、ただ創造主のの心が実現していたにすぎないかったのであり、事は人の努力には関係なく、主のご計画の前が遂行されているのでした。いえ、もし、リベカに主のご計画を信じて疑わない信仰があったのであれば、“のろいは私が受けます”という言葉さえなかったのではないでしょうか。いいかえれば、リベカには、祝福を奪回するための策略に手を染めてさえ、愛する息子のためにのろいを受けても良いほどの、母性愛によってだけ行動していたのであり、主の言葉への信頼に基づいた道を探そうという態度が見えなかったのでした。 
 愛する息子のために、自分が呪われてもいいというほどの母性愛。もしかしたら、人は、それをたたえるかもしれません。しかし、それは、信仰から生み出される実ではないのです。

 たとえ人間的には決して好ましくないと思われるようなリベカの所作でさえ、主の心が遂行されるためには、少しも妨げにならなかったということにつきます。それが、聖書のリベカ物語から読み取れる教えです。
 「嘘も方便」などということではありません。誤解なきように。
 

聖書の女性(5) レア

 レアの容姿について。まず、訳文の問題から。新改訳は、「レアの目は弱々しかった」とあり、新共同約は、「レアは優しい目をしていた」とあり、訳の違いであるとはいえ、全く正反対のような印象を受けます。原文「rak」は、子どもたちのひ弱さ(Gen33:13)や、無力さ(第二サムエル3:39)での用例と、ヘブル文の対象法からみて、ラケルとの比較のなかで、新改訳のように、「レアの目は弱々しかった」とされるべきなのでしょう。ラケルが「姿も顔だちも美しかった」のにたいして、レアは、とりわけ目は、具体的には知らされないものの“弱かった”のでした。
 女性の容姿について、かくも残酷な言い方がされている例も聖書のなかにめずらしいでしょう。しかし、まさしく、ラケルがヤコブを虜にしていたのにたいして、自分がヤコブの心に留まらかったのは、やはり、その容姿のためでした。
 でも、ことさら、レアが醜かったのかというと、(共同訳に示唆されているように)そうも思われないのです。ただ、容姿は、簡単に比較されるのでした。そして、美しく生まれついた女性が、人生の勝利者、最も恵まれた女性であるかのように振るまい、そして、醜く生まれついた女性が、“神は不公平”とまでいって、レアには、自らを卑下することさえ生じたに違いありません。いえ、少なくもとヤコブの視点に立つと、レアにたいしてラケルの美しさは際だっていたのです。
 女性の美しさは神からの賜物だということ、アブラハムの妻サラやダビデの妻となったアビガイルの例が示すように、それが聖書の立場です。しかし、容姿の美しさによって、祝福された人生かどうかが決まるなどのような人生観に陥っているのだとしたら、それは大いに誤っています。
 
 父ラバンは、ヤコブが妹のラケルを気に入っているのに目をつけて、ラケルと結婚をひきかえ条件に7年の労役を示したのです。ヤコブは、ラケルとの結婚を楽しみにしていために、「ほんの数日のように思えた」のでした。しかし、婚姻の日、はれてラケルと結ばれたと思い初夜をむかえた、明け方の朝、ラケルの顔と思っていたのに、なんとそれはレアでした。さっそく抗議したヤコブに、「この土地には、姉より先に妹を嫁がせる習慣はない」とつっぱねて、「ラケルも嫁がせるが、しかし、条件としてあと7年働け」と。ヤコブが気の毒というのもそうですが、むしろ、ラバンの、人のことを少しも尊ばず、かえって奴隷や家畜のように扱う性格について、ぼくには聖書の字間から臭気さえ漏れているかのようにみえます。これこそが本当の醜さではないか!と。それにしても、ヤコブにとっては、計14年の労役。それも、ラケルを恋い慕うがゆえに費やした時間でした。
  やがて、レアには、ルベン、シメオン、レビが生まれたものの、夫の心に常にあったのは、自分ではなく、妹のラケルでした。ここに、夫の心が、自分にむけられていない苦しみがありました。 容姿において、ラケルより劣り、そして、せっかく結婚したあとも、夫が自分ではなく、妹のラケルに心を奪われているという、レアの生涯は、そのように、またここでも天に叫び求めなければならない出来事があったのです。しかし、レアの人生における“祝福”は、まさに、この天への叫びから流れ出たといっても過言ではないでしょう。
 

聖書の女性 No6 ラケル

  レアにたいして、妹のラケルは「姿も顔だちも美しかった」ので、それゆえに、ヤコブは、レアより、ラケルを愛したのでした。主が、レアに子どもを授けているのに嫉妬し、女奴隷ビルハに子どもを生ませました。ラケルは夫から愛されていたとしても、レアとの“競争”に負けたくなかったのでした。なにも、“勝った負けた”の考え方に支配されるのは男性固有ではないのです。かえって、男子の場合は、「勝負事」に収まり、むしろ負け方の潔さが尊ばれますが、勝ち負けの論理に引き込まれたものの、“相手が負けるまで絶対に引かない”という、女性が中心になって巻き起こされる、怨念に満ちた、泥沼のようなトラブルは決して少なくないのです。
 ラケルの心には、不信仰の種が芽吹いていたと、読者は気づかねばなりません。子宝に恵まれる姉のレアを傍目でみながら、ラケルの心は嫉妬の炎にやかれます。そしてついに、夫にたいして、「私にも子どもをください。子どもをくださらねば、死にます」とまで、“かみつく”のでした。
 夫は、あなたに子どもを与えないのは私ではなく、それは神なのだと応えなければなりませんでした。

 ラケルの態度は、夫に対する対抗ではなく、間接的にせよ、それは、神への異議申し立てでした。そして、なんと、アブラハムの妻サラが、エジプトの奴隷をつかって、子どもを得ようとしたのと同じく、「奴隷によって子どもを得る」という行動に出たのです。それは、主の名を追い求めながら、実は、短絡的な、自分の納得する範囲に収めてしまうという、それは、たとえ信仰のようにみえたとしても、信仰とは全く相容れない行動だったのでした。
 ヤコブとレアとラケルの一家が、ラバンの家から密かに脱走を企てたとき、ラケルは、「守り神の像」を持ち出して、らくだの上にのせ、その上に乗って、隠しました。ラバンの家が偶像礼拝を行っていたということ、そして、ラケルも、その異教的な偶像に魂が奪われていたのでした。 
 神を、直接的に自分の五感で納得できる偽物に置き換えるという誘惑は、男女の違いはないとはいえ、とりわけ、木の実の出来事のとき騙されたイブのように、女性の弱さとしてカウントされるべきだと思います。
 レアは苦しみの時、主の名を呼びました。とりわけ、レビを生んだとき、夫の心を自分に引き寄せられるかどうかということをすでに乗り越えて、レアは、ただ主への賛美に満たされ、「主の名をほめよ=レビ」と告白したのでした。このときのレアの告白は、まさに、やがてキリストが生み出される系列にふさわしいのでした。しかし、一方、苦しみの場面において、ラケルは、まず夫を引き寄せ、そして“私に子どもを!”と責めたのでした。レアが、救世主の家系に繋がる子孫を生み出したのに対して、ヨセフの家系は、エジプト人と同化することにより消失し、そして、ベニヤミンの家系は、やがて、師士の時代に根絶やしにされたという歴史は、ラケルが示した偶像信仰への厳しい取り扱いだったという解釈もなりたちます。 

 ラケルの願いは、ついにかなえられ、、第一子ヨセフが生まれました。そして、第二子ベニヤミンが生まれたとき、その出産の痛みがあまりに重く、ベニヤミンが生まれようとするまさにその瞬間、ラケルも死のときをむかえつつあり、あまりの苦しさに、生まれ出る子どもに“ベン・オニ”つまり、“我が苦しみの子”と名付けました。苦しさのあまりの名とされようとしたところ、ヤコブは、“ベニヤミン”つまり、“我が右手の子”と呼びました。聖書のメッセージは、「子どもには良い名前を付けよ」という教訓ではなく、「私の右の手」、つまり、大切な子どもだと言い換えたことは、ベニヤミンの名はヤコブのラケルへの愛でもあり、そしてラケルではなく、ヤコブの信仰からでたことだったのです。
 主はラケルにすばらしい美貌を与えたものの、彼女の願いがかなえられた末の自分の子どもが、自分の命を奪うことになりました。死こそが安息の場所だったとみれば、少なくとも、ラケルの生涯は幸せな生涯ではなかったのです。

 もし、あなたが、人生の苦しみの場面において、第一に主の名を呼ぶのではなく、かえって、自分と他人を厭い呪うような言葉と態度しか浮かばないとしたら。あなたは、ラケルの幸せ薄い生涯と、その不信仰を理解しなければならないでしょう。
 
 

聖書の女性 No7 ディナ

 ディナは、レアとヤコブとの間に生まれた娘でした。やがて、一つの部族の存続を危うくするようになる事件は、直接的には、ディナによって引き起こされたといっていいのです。
 もともと、ディナは、カナンの性道徳の乱れについては、父ヤコブからも教えられていたでしょう。そして、偶像礼拝者であることにより、性についてのコードを全くもたないカナンの男子とは絶対に交際してはならないという“十戒の倫理コード”の意味を承知していたのでした。少なくとも、この事件がおこるまでは。
 事件があった日、少なくとも、ディナは、シケムに住む娘たちと過ごすために出かけたと思っていたのであり、“恋のアバンチュール”などという父への反抗的な態度はなかったのでしょう。
 何であれ、人の罪は、最初から重大なのではありません。いえ、罪は、たわいない、些細な動機をつかって入り込みます。
 それにしても、ディナのレイプ事件が発生するその水際、つまり、彼女が家を出るときに、家のものたちがディナの行動がわかっていたかどうか、聖書に書かれていません。でも、しかし、ディナに危機感がなかったとしても、では何ゆえに、ヤコブの家のものたちは、ディナが「カナンの娘達に会いに行く」ということに危機感をもたなかったのかといぶかしく思います。
 現代におきかえるなら、非キリスト者との交流は、こちらがしっかりしていれば無害だという考え方があります。ディナにも、そしてディナの家族には、きわめて安易な楽観主義があったのです。
 いえ、むしろ、伝道のため、人を助けるためにであれば、問題がある人たちとの交際をむしろ避けてはいけないといって、非キリスト者との交流を積極的におこなわせる。いえ、現代のホームスクーリングを理解するという意味で、反対に、たとえばあえて学校に子どもをやっている親たちの動機は、「彼らは想定しているより無害」、「自分たちの信仰を、クリスチャンでない人たちに、積極的に証しする場面があるなら、それを避けてはならない」ということでした。
 そのような楽観主義にたっているがゆえに、たくさんの熱心なクリスチャンホームで生まれ育った子どもたちが、意気揚々と学校生活を送り、やがて、信仰を失い、世の倫理観、とりわけ乱れた性倫理を易々と受け入れてしまいます。ところが、親たちは、そんな悲惨な事実と直面しても、前提となっている考え方、つまり、教育論や学校教育論について、わずかな変革も反省さえできないまま、“摂理論”つまり、神が曲げたものを誰が元にもどせようかという偽の信仰に逃れの場所を見いだすしかなくなるのでした。
 
 ヒビ人、ハモルの息子シケム。ディナが好きになり、しかし、それに留まらず、ディナを力ずくで捕らえ、強姦しました。
 彼にとっては、自分のものは当然自分のものであり、他人のものも自分のものです。手に入れたいと思ったら、たとえ力ずくでもという、ハモルは、土地の名士であり、その息子のシケムは、やりたい放題のわがままに育った、まさに“どら息子”でした。

 シケムは、ディナと結婚したいという願いがおこりました。いわば“できちゃった婚”。現代の非キリスト者にとって、それは何の問題も感じられませんでした。むしろ、血気盛ん、現代的にいえば、“結婚の新しいスタイル”とまでいえてしまうのでした。ヒビ人たちも、どら息子が、ディナと結婚したいということで、陵辱事件のことは一切問題にせず、なんともノーテンキにも、父ハモルは、「あなたの娘ディナと、息子ハモルを結婚させてください。婚姻関係を結び、親戚となりましょう」「結納金でもなんでも、望み通り払うので、どうか結婚の許可を」とまで申し出たのでした。

 しかし、当時のイスラエル民族にとって、強姦はそれだけで死罪であたり、ディナの心も、深く傷ついていました。ヤコブの息子たちは、妹が陵辱されたとみて、“ハモル一家の皆殺し”をもくろみ、それによって、旧約聖書のなかでも最悪の復讐劇が展開されることになります。
 彼らは騙していいました。「ディナとの結婚は受け入れよう。しかし、そのためには、一つ条件がある。すべての男子が割礼を受けること。それによって、親戚関係を結ぶことができる」と。ディナと結婚したい一念だったハモルは、彼の町のすべての男子に割礼を与えさせます。ヤコブの息子たちは、男子が全員が割礼を受けて、まだ割礼の傷が痛んでいる時、難なく男達全員を剣にかけて殺し、そこに軟禁されていたディナを連れ出したのでした。
  ついでに・・・とはいえないですが、ヒビ人の子どもや女を捕虜とし、その所有物である家畜を奪ったのです。妹が陵辱された仕返しという「大義名分」も、その土地に、イスラエルへの新しい敵意の連鎖が生み出されるという泥沼を生み出すことにたいし、為す術がありませんでした。  

 「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」とパウロはいいます。不倫の恋や、“できちゃった婚”が、あたかも憧れの対象のように崇めることが世間にまかり通る時代において、聖書的倫理観は、私たちにとって死守しなければならないのだと、ディナ事件は教えてくれるでしょう。それに、敵意の連鎖、そして新しい罪の連鎖さえもが、ディナの思いつきのような軽薄な行動によってひきおこされたという事実を、とりわけ、未婚のクリスチャン女性達は自覚しなければならないと思います。
 
 

聖書の女性 (8)  タマル

 タマルの心の葛藤を理解するうえで、聖書の世界と文化における結婚にまつわる古代ユダヤのしきたりを理解しなければなりません。
 つまり、ある人の兄が妻をめとり、子がなくして死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚し、兄の跡継ぎをもうけなければならないという義務がありました。いわゆるレビラート婚と呼ばれる決め事であり、現代社会においては、ほとんど馴染みない義務でしょう。
 タマルも、タマルからみたらしゅうとにあたるユダには、クリスチャン信仰が異教の影響を受けたとき、どのように歪められるかの事例をみるようです。
 ユダには、エル、オナン、シェラという3人の男子が産まれました。タマルは、長男のエルと結婚したものの、エルは主が命を終わらせたので死に、しきたりに従い、次男のオナンがタマルを妻として娶りました。ところが、オナンは、生まれるかもしれない子どもが自分の子孫でなく、エルの子孫とカウントされるとわかっていたので、あえて“妊娠させないために、精を外に流していた”ことから、神の怒りを受けて、命を奪われたのです。
 かくも、苦々しい歴史をもつユダヤのレビラート婚なるものが、現代人に継承されなかったことは幸いだとはいえ、なにかと、男女の性を、結婚と無関係とみなす現代の風潮のなかで、規範となるべきキリスト者の役割を自覚しなければならないのでした。
 エルによっても、オナンによっても、子どもを残せなかったタマルの悩みは深かったのです。それで、しきたりによれば、三男のシェラを夫として、子孫が残せる可能性があったということになります。しかし、ここにきて、ユダは、さすがに警戒心が強くなり、まだ少年だったシェラをみて、タマルには「ジェラが成人するまで、実家で過ごしなさい」と命じました。
 しかし、ユダは、すでに2人を失い、ここにきて、シェラまで失いたくなかったのであり、タマルと結婚させる気はなかったのでした。ユダはすでに妻を亡くしていたので、タマルにとっては、いわばユダとの究極の不倫こそ、タマルにとってみれば、子孫を残すために残されれた、ただ一つの道だったのでした。
 
 そのとき、ユダの妻は死亡していて、ユダは性的欲求のはけ口を、“神殿娼婦”に求めました。行きずりの性関係。まさに不倫。カナン地方の性道徳が乱れていたのは、当時のカナン宗教が、男女の性的な関係を、神的なものとの遭遇と同一視していたからでした。それは、なにも、古代チベット仏教の元祖にみられる現象であるばかりでなく、すでにいにしえの古代から、古今東西にみられるのでした。まさに、ソドムとゴモラの例に待つまでもなく、性的放縦によって古代文明は存亡を繰り返してきたのだといえます。
 最も重要なポイントは、ユダの心にも、カナン宗教の影響が入り込んでいたこと、タマルのとった方法も、それ自体が罪である姦淫だったということでした。不倫に身を落としたユダも悪いが、しかし、いくら子孫を生み出すためとはいえ、罪を誘発させるため娼婦に変装したタマルには同情することさえできません。
 最近、クリスチャン指導者にみられる性道徳の乱れが話題にされます。聖書に裏付けられた性道徳と結婚観・人生観が継承されなければならないのであり、聖職者による性犯罪にたいして、明確な態度が必要です。聖書信仰を告白するものは、聖職者の性的な堕落にたいして、他人事のように、見過ごすような態度は許されないのです。しかし、一方で、私たちの信仰や宣教が、人間なレベルでの倫理が完成したところに達成するのではなく、(もちろん、信仰には高い倫理性が伴うのであり、姦淫の罪は激しく罰せられなければならないとしても)、ただ主のご計画だけが成就するのであり、主の業は、人の行いや高潔さが実として生みされるとしても、主のみ業は、人間の完成度に依存してはいないのだとされなければなりません。人は、罪がなくなってある基準に達したから救われるのではなく、救われた事実を前にして、全く罪人のまま、「こんな罪人の私を許してください」と告白するのみなのです。そういうのは、なにも教職者やクリスチャンの不道徳を擁護したり、まして不倫を推奨しているのではありません。どうか、誤解されませんように。
 どれほどの不品行や罪をみたとしても、それによって神のご計画が遂行されるために、妨げとはならなかったのです。不倫によって子孫を残したタマルの名がキリスト誕生に至る系図に記されています。(マタイ福音書1章)
 それを見て、主のご計画は、命とひきかえに罪人を贖うためであったと再確認したいのです。